東京神田生まれで、17歳のとき橘家円喬に入門した落語家の五代目古今亭志ん生(1890~1973)は、「火焔太鼓」「お直し」「らくだ」などを天衣無縫、自由闊達に演じ、天才の名をほしいままにした。長男が金原亭馬生、次男が古今亭志ん朝。池波志乃さん(1955~)は馬生の長女で女優。

(初出:「文藝春秋」1989年9月号)

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「何しろおじいちゃんはいい加減な人でした」

 おじいちゃんは、家中、芸人になるのが夢でした。私は15歳のときに高校を3カ月で中退して俳優座小劇場の養成所に入ったんです。でも、おじいちゃんは新劇はピンとこなかったらしくそれほど喜びませんでした。それから2年後新国劇に入団して「島田(正吾)先生がおじいちゃんによろしくって言ってたよ」と報告しましたら、もうほとんど寝たきりだったおじいちゃんが涙を流して喜んでくれました。でもとうとう私の舞台姿を見ないで亡くなってしまいました。

古今亭志ん生 ©文藝春秋

 何しろおじいちゃんはいい加減な人でした。亡くなってから、これはおじいちゃんに聞いたといって皆で同じ話をしましたら、全員の話が少しずつ違うんです。私が聞いた話は不忍池(しのばずのいけ)に主(ぬし)がいて、それはとても大きくて耳のあるウナギだというんです。それがたまに出てきて耳をぴくぴく動かすんだという話でした。あるお弟子さんは隅田川と聞いたというんです。ところが母は別の地名を聞いてるんです。

 おじいちゃんを理解するには「勝手な人」というのを頭に入れておかないと難しいと思います。祖父の家とは一軒おいて隣に住んでいましたので、小さい頃からよく遊びに行きました。というより、朝になるとおじいちゃんが私のことを迎えにきて、そのままおじいちゃんのところで朝食を食べていました。私は初孫で、珍しいもんだから、おもちゃみたいに可愛がるんです。でも、元来、子供が好きな人ではないので孫と遊ぶのは私であきてしまい、もう子供はうっとうしいと思ったのか、二人の妹のことは全くかまいませんでした。

 酒はお茶を飲むように、死ぬまで飲んでました。身体を悪くしてからはコップ酒でしたので、多少水をたして飲ましても気がつかないと思ってたんです。ところがある日、叔母さんが水を入れ過ぎて渡したんです。そうしたらおじいちゃんは「おい、今日のはちょっと薄めすぎだぞ」と文句を言ったんです。水で割っていたのを知って飲んでたんですね。