貧乏生活の反動で

 おじいちゃん一家が貧乏だった話はよく知られていますが、父に言わせるとおじいちゃんは祝儀でも入れば飲む、打つ、買うと自分の遊びに使ってしまい、貧乏してたのは家族だけだということになります。私が父から聞いた話は「一杯のかけそば」どころの話ではありません。一杯のかけそばを3人で食べられれば、まだましな生活だったようです。

 父が子供のころ、真冬に暖房もない生活で、祖母が内職をして湯たんぽをやっと手にいれてきました。ところが火種がなくてお湯が沸かせない。そこで父はそば屋へ温かさが長持ちするそば湯をもらいに行かされました。しかし、さすがに父もそば湯だけをもらうためにそば屋へ入るのはためらわれ、店の前でもじもじしてたそうです。しばらくすると常連客が店の主人に話をしてくれ、湯を入れてくれるまで店の中で待つことになりました。と、そばのいい匂いがして、つい空腹のあまり客の食べてるそばを食い入るようにのぞき込んでしまった。客は店の親父に「こんなにじっとのぞかれたんじゃまずくなる。早くそば湯を入れてやれ」と声をかけ、とても恥ずかしい思いをしたそうです。

古今亭志ん生 ©文藝春秋

 なにしろ貧乏ぶりは徹底していて、祖母は冬なのに浴衣を着て、腰巻に襦袢(じゆばん)だけで暮らしてたんです。父も小さいころおじいちゃんが家にいた記憶がないといってました。祖母の内職で生活して、祖父は別の次元にいたようなものだったようです。

ADVERTISEMENT

 昔ひどい苦労を祖母にかけたせいか、年をとってからは祖母が威張ってまして、おじいちゃんはよく怒られてました。祖母が「ぎゃっ」というと何にも言えず黙ってました。

 それと人生の後半、おじいちゃんが売れっ子になって生活がよくなってきたら、かつての貧乏生活の反動か、祖母の金の遣い方が派手になりました。祝儀の切り方も手当たりしだいで、たとえば千疋屋からメロンを届けさせたうえ、使いで来た人に祝儀を渡してしまうんです。若いころはおじいちゃんがすっからかんに使い、年とってからは祖母が浪費をして最後には何にも残らず、とても二人は似合いの夫婦だったんではないでしょうか。祖母はおじいちゃんより2年早く亡くなったんですが、祖母が死んだことをなかなか認めたくなかったようです。亡くなったときに顔を見てあげなよ、と言っても絶対見ようとしませんでした。

 父にとってはあまりにもひどいおじいちゃんでしたが、稽古をつけてもらうときには言葉遣いや礼儀まで師弟の関係になっていました。普通の家庭では、こんな父親をもてば反抗するか全く相手にしないでしょうが、父はおじいちゃんの芸を心から尊敬していたからこそできたのだと思います。芸の世界の魅力と厳しさを教えられた気がします。

◆このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『昭和100年の100人 スタア篇』に掲載されています。

次のページ 写真ページはこちら