なかなか結婚できなかった
私たちの結婚は、35年の12月ですけど、実は「狂った果実」の年の暮に、石原からプロポーズがあったんです。ですから、時期としては、かなり早かったんですが、なかなか結婚できませんでした。お友だちも、私の両親も、石原のほうでも、みんな協力して下さったんですけれど、会社が許してくれなかったのです。石原は日の出の勢いの俳優でしたから、当り前だったとは思いますけど。
それでも、ようやく結婚にこぎつけまして、私は映画をやめました。どうしてすぐやめてしまったんですかと、よく訊かれますが、理由はまったく単純なんです。女房は、結婚したら家にいるものだ、ということです。それが私たちの年代なんです。嫁いだら、もう、その家の主婦にならなければならないという、ごく平凡な家庭に育ちましたから、そういうふうに母に教えられたというよりも、そう育てられてしまったんですね。女優になった時から、別に相手が石原でなくても、結婚したらやめるつもりでおりました。
それと同時に、石原は、やはり、家で世話をする人間がいないといけない、あれだけ忙しい人間は、お手伝いさんだけにはまかせられない、ということもありました。ということは、石原を理解し、現場を理解する人間じゃないと、とてもこの家は守れないということです。
私、そういう意味では、決して間違ったことはしていなかったと思うんですね。そして、この結婚を、私は本当に、何というんですか、一言で言いますと、誇りに思っています。
私は、石原にとって妻であり、恋人であり、母であり、兄弟であったと思います。みなさんはタフガイと よく石原のことをいいますが、本当は繊細な、心のやさしい人でした。
結婚してからの愉しい思い出は沢山ありますけれど、その中でも、非常に充実していたのは、毎年、暮に必ず二人で日本を離れるということでした。
行く先は最初からハワイです。なぜかハワイが好きなんですね。あの気候に合ったんじゃないでしょうか。なにしろ、健康な時は、陽をさんさんと浴びて、真っ黒に灼(や)いて、青い海で飛び回る人でしたから。
病気をしても、神様がよくして下さったもので、ハワイの気候が一番体に合っていたようです。ですから、何とかして、もう一度、あちらへ連れていってあげたいと思っているんですけれども……。
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後編では、石原裕次郎本人、そしてまき子夫人も知らされていなかったという“本当の病状”や、「それでも私は、できることなら、石原と会いたい。本当に、もう一度、会いたいんです」というまき子夫人の思いが明かされる。



