「嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死 」
(読み)ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや
(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか。

私財を投じ源内の墓を建てた玄白のせつない胸の内

ちなみに玄白は源内による殺人を「狂病」(精神に錯乱を起こす病)のためと書いています。狂病のために人を殺し、獄に下るとしているのです。さらに玄白は、源内は獄死人であったので、死体は家族に引き渡されず、その親族(源内の甥や姪)に衣服や履き物が与えられ、浅草の総泉寺に葬られたと書いています。

しかし、それは「世間体をつくろった言」(城福勇『平賀源内の研究』創元社、1976年)であって実際には源内の遺体は引き渡されたようです。昭和3年(1928)の総泉寺の源内墓所修築の折に、礎石下の土中から「彼の遺骨と推定するよりほかはない骨つぼが発見」(前掲書)されたことがその証拠になったと言えるでしょう。玄白は源内墓碑銘に源内の人となりを「磊落不羈(らいらくふき)」(度量が広く、小事にこだわらず。何ものにも拘束されず、思い通りに振る舞う)と書きました。奔放に飛び回る「浪人者」源内を「藩医」の玄白は羨望のまなざしで見ていたのかもしれません。

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主要参考引用文献一覧
・城福勇『平賀源内の研究』(創元社、1976年)
・藤本十四秋「解体新書と、付図を描いた小田野直武」(『川崎医療短期大学紀要』29号、2009)
・呉座勇一「平賀源内と杉田玄白の明暗はどこで分かれたか」(『アゴラ』2025年3月9日)。

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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