その袋の口は「智惠の輪」になっており、簡単に開けることはできなかったのです。列座の者にその袋が回されていきますが、誰も開くことはできません。ついに末座の源内のところに袋が回ってきます。源内は袋を手に取りしばらく考え込んでいましたが、たちまちその袋の口を開いたのです。居並んだ客だけでなく、カランスも源内の「才の敏捷(びんしょう)なるに感じ」たのでした。このことがあってから源内とカランスは大変仲良くなったとのこと。
源内は玄白編纂の「解体新書」に蘭画の弟子を推薦した
「才の敏捷」な源内でしたが、そうであるがゆえにさまざまな事業に手を出し、失敗も経験しています。秩父地方の中津川村における鉱山事業の挫折もその1つです。中津川鉄山が休山したのは安永3年(1774)のことでしたが、同年に刊行されたのが解剖学書『解体新書』でした。『解体新書』には多くの挿図が描かれていますが、挿図を描いたのが小田野直武という20代の秋田藩士です。そして直武が蘭画の技法を学んだのが、西洋式の絵画にも長けていた源内だったのです。源内は弟子の直武を玄白に紹介し、彼が図を描くことになるのでした。源内は『解体新書』の完成に間接的にではありますが寄与していたのです。
源内と玄白、両者は次第に明暗が分かれていきますが、源内は安永8年(1779)、殺人事件を起こしてしまい、入牢。その年12月に獄死します。
源内は51歳の時に殺傷事件を起こし、投獄死してしまう
哀れな最期を遂げた友人の死を玄白は悲しみました。天明期を代表する文人で蔦屋重三郎とも交流があった大田南畝は源内の「友」杉田玄白が「私財」をもって源内の「墓碑」を建てたことを書いています。
玄白は墓碑銘を記していますが、そこにはあの有名な「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」との一文があるのです。源内の「非常」の死を悼む気持ちが伝わってきますが、その振る舞いや好みが尋常でなかったことがスッと胸に入ってくる名文であります。