坂元作品が描いてきた犯罪と、マルチバース的概念
本作は残酷な事件・犯罪が物語の起点となっている。3人はあきらかに被害者だ。無差別殺人者は、無差別といいながら殺しやすい相手を選ぶ。結局、女性や子どもが被害者となるケースが多いという現実を改めて目の当たりにしたような気持ちになる。だからといって、本作は少年犯罪を糾弾するための作品にはなっていない。改正少年法について考えさせる余白は意図的に用意されていたが、作中のセリフを借りれば、これは「ただのかわいそうなお話」なのだ。
これまでの坂元作品においても、事件や犯罪は特別な事象としてではなく、登場人物たちの日常のすぐ隣に常に存在してきた。時には、日常的な人間関係の歪みや些細な出来事が、意図せず犯罪へと繋がってしまう可能性を示唆する描写も散見される。『それでも、生きてゆく』のように犯罪そのものが主題となる作品もあるが、『Mother』における児童虐待や誘拐、『anone』(日本テレビ、2018年)における通貨偽造、『Woman』や『ファーストキス 1ST KISS』における不慮の事故、はたまた『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ、2021年)における結婚詐欺まで、さまざまな形で犯罪や悲劇が描かれてきた。それらは断罪すべき悪行としてではなく、人間の内面、社会構造の歪み、そして人間関係の複雑さを深く掘り下げるための重要な要素でもあった。
さらに、本作における異なるレイヤー世界の概念も、これまでの作品の中にその萌芽が見て取れる。『大豆田とわ子と三人の元夫』の小鳥遊(オダギリジョー)が、親友・かごめ(市川実日子)を亡くし失意の中にいるとわ子(松たか子)に対してこんな言葉を贈る。
「人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40、その時その時を人は懸命に生きてて、それは別に過ぎ去ってしまった物なんかじゃ無くて。だから、あなたが笑った彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑ってるし、5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて。今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も悲しい結末も、やり残したことも無い、あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。だから人生には二つルールがある。亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きてる人は幸せを目指さなければならない。人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる」
『ファーストキス 1ST KISS』で松たか子演じる主人公の夫・駈(松村北斗)が「過去は消えるものではなく、過去と現在と未来は同時に存在している」と語っていたのも、この考えにつながるものだ。そしてそれは本作へと受け継がれている。
それぞれの瞬間は孤立しているようで、実は何らかの形で繋がっている可能性がある。だからこそ、やり遂げられなかった後悔があったとしても、それは別の時間、別の形で補完されているのかもしれない。目の前から消えたと思っても、それが何らかの別の形で存在し続けていると思えるなら、抱えている悲しみや苦しみ、悔しさといった感情が少しは楽になるのではないだろうか。
この発想は、本作のように突然命を失う悲しみに直面したときに、非常に有効だと感じられる。自然災害が多いこの国では、日常を脅かす厄災や事件はすぐ近くに潜んでいる。死別を経験した人が悲しみから立ち直るためのグリーフケアの重要性が叫ばれる昨今、心を解放し、悲しみを癒やし、「喪失」を受け入れるための一つの思考として、本作は観る者にそっと力を与えてくれるだろう。
本作を観て、ストーリーの辻褄が合わないと感じた観客もいたかもしれない。しかし、「異なる条件を同時に満たす何かが必ず存在する」と捉えれば、物理法則や論理的な因果を飛び越えることも可能になる。その上で物語を成立させてしまう坂元の強引とも思える筆力は、やはり驚嘆に値する。
また、美咲、優花、さくらの3人が慎ましく共同生活を送り、まるで家族のような運命共同体を形成している点もまた、坂元作品らしさが光る部分だ。『Woman』『anone』『カルテット』(TBS、2017年)など、これまでの多くの作品で擬似家族がモチーフとして描かれてきた。社会的に弱い立場に置かれた人々に寄り添いながら、新たなホームの可能性を模索しているのだ。血縁に依存しない形でも愛情深いコミュニティは築けるという一貫したメッセージは、必ず誰かの救いになるものだ。

