2020年4月、兵庫県尼崎市のとあるアパートで、ある女性が室内の金庫に3400万円を残して孤独死した。身元不明の死者「行旅死亡人」として官報に掲載されていた彼女は、いったい何者なのか?

 ここでは、取材をした共同通信記者、武田惇志さんと伊藤亜衣さん(現在は退職)の共著『ある行旅死亡人の物語』(毎日新聞出版)より、一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

写真はイメージです ©manbo_photo/イメージマート

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プロの探偵による身元の調査

 さて、「田中千津子」さんの遺体発見から約10カ月経った2021年2月15日、太田弁護士が相続財産管理人に選任される。太田弁護士は自ら錦江荘へ赴き、片付け作業に従事したが、身元特定につながる資料は何も見つからなかったという。

 太田弁護士は、女性が亡くなってからかなり時間が経過しており、関係者の記憶もどんどん薄くなっていくことを懸念して、探偵を雇って調べることに。3月からほぼひと月にわたって、プロの探偵が調査に入ることになった。

 探偵は有用な情報を整理したうえで、調査事項を大家・製缶工場・商店街・尼崎駅周辺の4つに絞り込み、聞き込みに回ったようだ。

 大家は探偵に対し、以下のような不思議な証言を残したという。生前、女性は「たいてい杭瀬(くいせ)市場で買い物をしていたようだが、錦江荘からみて市場は南東方向に位置しているにもかかわらず、買い物帰りの女性は、いつも北東方面から徒歩で帰宅していた」というのである。

 探偵がこの証言についてどう考えたかは不明だが、女性の日常ルーティンについても大家が素朴な疑問を抱いていたことはうかがえる。もちろん、南東の市場に向かって北東から帰るという、単なる散歩コースになっていた可能性は否めないのだが。

 製缶工場に関しては、近隣住民への調査から、当時の経営者は10年以上も前に死去していたことが判明。登記上の経営者宅は空き家状態になっていた。高齢の妻は重度の認知症で、一人娘が引き取ったという。

 その後も周辺の調査に手を尽くしたようだが、成果は上がらなかった。工場の関係者が女性と面識があったのは確実であり、この線での調査の失敗に探偵も残念がっていたという。