巨人から「大投手」が生まれない理由

 弱小チームの多くは、シーズン前半でペナントレースから脱落する。あとは個々の選手が「個人記録」に走ることになる。主力選手、中心選手は自分の記録のために融通を利かせてもらうことが可能になる。西本幸雄は1974年に近鉄の監督になった当時を「選手はみんなバラバラで野球をしていた。マウンドでは鈴木啓示が一人で勝手に投げていた」と述懐したが、そういう状況だったのだ。

 反対に、巨人は1960年代からMLBの選手起用を真似て投手のローテーションを組んでいた。巨人の歴代最多勝は南海から来た別所毅彦の221勝、200勝投手は他に203勝の堀内恒夫がいるだけ。むしろ強豪チームでは、こうした「大投手」は生まれないのだ。

記録への執念がすごかった金田正一 ©文藝春秋

 弱小国鉄時代から、金田正一は「記録」に異様な執念を抱いていた。1957年6月19日の巨人戦で、スタルヒンが持っていたプロ野球通算最多奪三振記録を抜く1967奪三振を達成。それからわずか5年の1962年9月2日の巨人戦で8三振を奪い、ウォルター・ジョンソンが持つMLBの奪三振記録に並ぶ3508奪三振を記録。

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 優勝に縁がなかった国鉄の記事が紙面に大きく躍るのは、金田が大記録を作ったときだけだった。金田がとりわけ執念を抱いていたのは「連続20勝記録」だった。最終的には前人未到の「14年連続」を記録するが、10年目の1960年は、オフに事故に遭って故障したこともあり、やや不振。残り6試合となった9月29日の中日戦でようやく19勝。