「お前のような顔はうちの家系にいない」
母は完璧主義だったのです。自分が教育を受けられなくて苦労したので、私を同じ目にあわせるわけにはいかないと、焦りがあったのかもしれません。でも、私は母に憎まれていると思っていました。
母が「おまえは木の股から生まれたんだよ」と言ったときも、冗談に思えなかった。小学4年生のとき、継母にいじめられる少女の物語を書き、そのなかに自分の気持ちを投影させました。それが見つかったときには、「親不孝者」と泣かれました。
母に「おまえがかわいいから、厳しくするんだよ」と言われても、その言葉は私の心に届きませんでした。今から考えると、それは愛という名のもとに行われた「いじめ」だったと思います。でも、母に愛されたい私は、じっと我慢するしかありませんでした。
それだけ厳しくしつけておきながら、母からはよく「勉強ばかりできたって、女らしくしないとお嫁にいけないよ」と言われました。当時は、女の唯一の幸せが結婚でしたからね。結婚できない女の人は陰口を言われて、世間からつまはじきにされます。子どもを産めないと親戚中からいじめられたり、実家に帰されたり、そんな悲劇ばかりでした。
私は生まれながら体が大きくて元気だったから、親はあわてたのでしょう。父は昔はハンサムだったらしく、母も小さな顔でかわいかった。だから、「おまえのような顔はうちの家系にいない」って。弟は母に似てかわいかったので、私の赤い着物を着せて、「2人が逆だったらよかったのに」とため息をつかれたものです。
「おまえみたいな大足だとお嫁にいけないよ」、そんな言葉も浴びせられました。母は私が「女らしく」なるようにと、一挙手一投足にダメ出しをしました。
「勉強して自立しなさい」と言いながら、「女らしくしてお嫁にいきなさい」と言われるわけですから、赤信号と青信号を同時に出されていたような状態です。要するに、今でいうダブルバインドですね。そのことが私を追いつめ、だんだん自分の気持ちを自由に表現できなくなりました。怒りも悲しみも寂しさも全部、心の奥底に抑圧してしまいます。
夜中になってみんなが寝静まると、トタン屋根の上にのぼって、月を見ながら泣いていました。
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