こすゑさんは「ただ、写真があるもんだ」と一葉の白黒写真を見せてくれた。そこには相撲のまわしをつけた小柄だが引き締まった身体をした少年が写っていた。写真の裏には「久野久芳 19才」と書かれている。私はこれで初めて被害者の名前を知った。
「相撲をやってたんだね。友だち5人ぐらいとまわしをつけた写真もあったんだけど、わたしがどっかやっちゃったもんだ」
「サメがこうやってひっくらかえったら噛まれるというのは、よく聞いてた」
――久芳さんが襲われたときの状況というのはお父さんから聞かされたんですか?
「(事故は)わしが生まれるずっと前のことだから。わしがものごころついてから、小さいときに(父から)聞かされとったもんだ」
――どういう風に聞かされたんでしょうか?
「“くぐりさ(潜水漁)”は1人で行かんもんだい。2人とか3人で行って、1人がくぐって(潜って)、もう1人がおかばんで舵をもって、あげるもんだいね(船の上で舵をもって潜った人についていき、獲れたものを船へあげる)。
それで叔父さんが潜っているときにサメに(脇腹あたりを指して)ここを噛まれたらしい。この横っ腹というものを。(噛まれたのが)足とかだったら助かってたかもしらん。けれど横っ腹だもんで、縛って血を止めることもできない。今でいう出血多量とかそういうような感じじゃなかったかね」
実際に片方の膝から下をサメに食いちぎられたものの一命はとりとめた漁師の姿を、こすゑさんは幼い頃に島で見かけたことがあるという。当時の日間賀島ではサメによる被害者は珍しくはなかったのかもしれない。
――叔父さんはサメに噛まれた後で舟に引きあげられた、ということですね。
「まあ、自分では上がれん、仲間がおったもんね。ただ昔だもんが医者もここら(島)にないがね。それで病院のある師崎(知多半島の先端にある港町)まで、舟で運んで。運んでいった途中で死んだのか、(師崎の病院に)着いてから死んだのか、それもわからんけど」
久芳さんがサメに襲われて亡くなったという事実は久野家に影を落とした。
「やっぱり、じいちゃんも兄弟がサメに食われてからめったく海に行かんようになったというのは聞いたことあるけどね。わしも、あまり海で遊ぶな、というようなことは親から言われとったもんでね。身内で集まると(久芳さんが襲われたとき)その場にいた人もいたし、医者に連れて行ってくれた人もいました。そういう人たちからも(事故の)話を聞いとったもんだ」
――襲われたサメの種類などはわかっていたんでしょうか?
「さあ、それはわからないね。人を食うぐらいだから大きいサメだったろうね」
