私がニッポン放送に入社したのは、1964年。番組制作やディスクジョッキーを経て、社長に就任したのは99年のことです。それまで9年間、代表権のない専務で、次は子会社のポニーキャニオンに異動するのかと思っていた。そこへフジサンケイグループ代表だった羽佐間重彰さんの考えか、ニッポン放送の代表取締役に任命されたんです。羽佐間さんは映画会社大映から放送畑に来た変わり種。グループ重鎮・石田達郎氏を補佐してオールナイトニッポンなどを成功に導いた。その後、フジテレビ社長だった日枝久さんと手を結び、1992年にグループトップの座にあった鹿内宏明氏を私的に企業を牛耳っていると断じて、要職から追放しました。

クーデタの真相

 宏明氏は、当時フジサンケイグループのオーナーだった鹿内家の三代目。初代は信隆さんで、その長男の春雄さんが二代目を継ぎますが、1988年に急逝。信隆さんの次女と結婚した宏明氏が婿養子に入って、鹿内家を継いでいました。宏明氏は東大卒、日本興業銀行出身の超エリートで御本人も自負心があるのか、気張りすぎのきらいがありました。これは読売新聞の滝鼻卓雄(読売新聞グループ本社相談役)さんに伺ったんですが、初対面の渡邉恒雄さんに「渡邉君!」と呼びかけたらしい。フジサンケイグループの総帥としてナベツネさんと同格であると気負ったのかもしれない。それだけじゃない、フジサンケイクラシックで自分の部下が「オレと同じ白い服を着てるぞ!」って騒いだとか、専属の運転手さんの座席を蹴ったとか、経営者として畑違いでメディアへの理解が浅いとか、良くない噂ばかりを耳にしました。

※本記事の全文(約15,000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(亀渕昭信×岸川真「ライブドア事件20年『当時の日記を初めて公開します』 カメ社長の買収防衛日記」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
・子会社化はイヤだった
・着々と進むTOB計画
・日枝氏への手紙
・「グループのいたずらっ子」
・ホリエモンとの初会談

■連載「カメ社長の買収防衛日記」亀渕昭信
前編 ライブドア事件20年「当時の日記を初めて公開します」
中編 日枝さんのおっかない顔
後編 ニッポン放送を救った日枝さんとの約束

次のページ 写真ページはこちら