元々は愚連隊を率いていた不良だったが、稲川会の中核組織であり組織が大きい山川一家に加入したことも清田にとっては好運だった。山川一家という後ろ盾もあり、稲川会本体でも頭角を現していく。

 前出の元マル暴刑事は1970年代の中ごろ、30代前半だった清田に初めて会ったという。

「その頃は自分もまだ20代で、神奈川のある警察署勤務だった。私が勤務していた署の管内には飲食店が密集している繁華街があるため、様々な事件で逮捕されたヤクザが留置所によく入ってきた。当時は所轄の刑事課が留置管理を担当していて、自分が当番の時にたまたま清田が来た。ヤクザは態度が悪く大柄な者が多かったが、清田は礼儀正しく腰が低かった。敵対するヤクザには容赦ないが、カタギ(一般市民)には丁寧で礼をわきまえた対応をする。これが昔気質の任侠道と考えていたようだ」

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 検察庁への移送などで清田の担当をした時も、様子はその他のヤクザとは違った。

稲川会系組事務所に家宅捜索に入る大阪府警の捜査員=12日午後1時10分、川崎市川崎区南町
(CPA Media Co. Ltd./UIG/時事通信フォト)

「移送の時は手錠や腰縄を装着するが、そういう手続きの際に清田はいつも『ご苦労様です』と礼儀正しかった。今思えば、さすがに組織のトップになる人間の対応だったということかもしれない」

「ヤクザはべらんめえ口調で話す者もいるが、清田は…」

 清田について強く印象に残っているのは、あまりにも大きくて分厚い両手だという。

「後に清田の子分から聞いた話だが、舎弟や子分に不始末があると、清田は容赦なく殴りつけたようだ。野球のグローブのようなデカい手でパチンと平手打ちしたりガツンと殴りつけたりするので、若い衆は『顔は怖いし、あのデカい手だからとにかく痛い』と恐れていた。その話を聞いた頃はもう山川一家で総長代行というナンバー2の役職についていた。若い衆のしつけに厳しく、悪さをしたら張り倒すのは、組織の規律を維持するためだったようだ」

 大物になるにつれて清田が留置場へ入ることもなくなったが、元マル暴刑事は約20年後の1990年代初頭、清田に再会することになる。その席には、現在の稲川会会長の内堀和也も同席していた。

「私がヤクザの捜査専門になっていて、視察のため(川崎市内の)山川一家本部事務所を訪問した。そのころには、清田は山川一家の総長に就任し、稲川会の2次団体のトップらしい顔になっていた。この際には、世間話をしただけだった。ヤクザはべらんめえ口調で話す者もいるが、清田は落ち着いた話しぶりで紳士的な対応だった。稲川会現会長の内堀もいたが、金融機関に務めていた経歴がある通り、一見するとヤクザには見えない男だった。内堀は、かつて携わっていた金融の仕事について話をしていたことを覚えている」