昭和最大の黒幕として、政界や経済界に絶大な影響力を誇った児玉誉士夫。7歳で母を亡くし、関東大震災で父を亡くして孤児となった児玉は戦前、中国・朝鮮半島で暗躍。戦後は自民党創設にも関わり、ロッキード事件で倒れるまで日本の政財界に影響を持ち続けた。

「事件の陰に児玉あり」と言われるほどの影響力があった児玉誉士夫とは、いったい何者だったのか。ここでは、児玉の生涯に迫った大下英治氏の著書『児玉誉士夫 黒幕の昭和史』(宝島社)より一部を抜粋。児玉誉士夫と、稲川会“伝説のヤクザ”稲川聖城の関係を紹介する。(全3回の2回目/3回目に続く)

写真はイメージです ©アフロ

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「お待ちしておりました」児玉邸を訪れた稲川聖城

 稲川は、それからまもなく、世田谷区等々力の児玉邸の前に車を止めさせた。アスファルトの道路と直角に、車寄せがあり、その中に入った。車を降りたところに、観音開きの大きな木の扉があった。

 ブザーを押した。

「どなたさまでしょうか」

 なかから、声がした。

「熱海の稲川です」

 稲川が名乗ると、「お待ちください」という声があり、しばらくして扉が開かれた。

 書生の案内によって、なかに足を踏み入れた。

 1000坪近い広さの敷地であった。芝生の庭のなかに、木造2階建が建っていた。左側だけが、平屋であった。応接間であろう。

 玄関に入ると、坊主頭の眼鏡をかけた別の書生が出ていた。稲川は、あらためて名乗った。

「稲川です。児玉先生に会いにきました」

「お待ちしておりました」

靴を脱いで上がると、殺気立った雰囲気を感じた

 丁重な口調であった。その3ヵ月前に児玉邸に書生として入ったばかりの、太刀川恒夫であった。太刀川は、昭和30年(1955年)3月、山梨県立日川高校を卒業。その後、児玉の著書『われ敗れたり』を読み、児玉の波瀾万丈な生き方に共鳴し、「児玉先生のような人間になろう」と考えた。昭和35年4月、児玉を頼って上京。児玉宅に書生として住み込んでいた。

 太刀川の案内により、石段を2段のぼった。畳2畳ばかりある黒く磨き抜かれた瓦の敷き込みを通ると、木のドアが内側にひらいた。そこを入ると、やはり黒瓦を敷き込んだ三和土があった。入り組んだ造りであった。

 稲川は、靴を脱いで上がった。一瞬、殺気立った雰囲気を感じた。右手に、第2応接間があった。そこには、先日稲川に会いにきた岡村吾一と菊池庸介がひかえていた。