昭和最大の黒幕として、政界や経済界に絶大な影響力を誇った児玉誉士夫。7歳で母を亡くし、関東大震災で父を亡くして孤児となった児玉は戦前、中国・朝鮮半島で暗躍。戦後は自民党創設にも関わり、ロッキード事件で倒れるまで日本の政財界に影響を持ち続けた。

「事件の陰に児玉あり」と言われるほどの影響力があった児玉誉士夫とは、いったい何者だったのか。ここでは、児玉の生涯に迫った大下英治氏の著書『児玉誉士夫 黒幕の昭和史』(宝島社)より一部を抜粋。“日本一の右翼”児玉誉士夫と、“伝説のプロレスラー”力道山の関係を紹介する。(全3回の3回目/1回目から読む

“伝説のプロレスラー”力道山 ©文藝春秋

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「今日あんたのオヤジ、撃たなきゃなんねえ」東声会の手の者が拳銃をちらつかせ…

 日本を発つのは、日本航空の国際線スチュワーデス田中敬子と婚約発表した翌日の1月8日であった。宍倉はその日、早朝6時半頃、リキ・アパートに行った。エレベーターで上がろうと、受付のあるホールに入ってみると、顔見知りの東声会の手の者が数人いた。

「オヤジ、行くの?」

 と訊いてきた。

「ああ、行くよ」

「そうか、それなら悪いけれども、今日あんたのオヤジ、撃たなきゃなんねえ。危ねえから、オヤジの近くを歩くなよ」

 コートの下から、拳銃をちらつかせた。

「何いってんだ。おれのオヤジだ。おれはヤクザじゃないし、撃たれる理由もない。ちゃんとオヤジの前を歩くよ」

 児玉誉士夫が、どちらのルートで行くかもめていた山口組と東声会のあいだに入って山口組に落ち着いたというのに、やはり面子というものがあるのである。面子を潰されたかぎりは、落としまえをつけさせてもらう、というのだった。

 宍倉は、8階の力道山の部屋に上がった。韓国に同行する吉村義雄が、すでにきていた。