「リングの上で撃たれるかもしれん」山口組3代目・田岡一雄が力道山を心配する理由

「鶴ノ家」では、力道山、田岡、それに力道山を訪韓に向かわせた一言を発した宍倉の3人で、テーブルを囲んだ。田岡が、力道山を心配気に見やった。

「リキさん、きょうは試合に出るのは、やめなさい。うちの連中には、リキ・パレスを守らせてはいるけれど、東声会の連中も、頭に血がのぼっとるからね。児玉さんになかに入ってもろて、話はいちおうつけてはあるが、上で話がついても、ここで名をあげてやろうちゅう若い衆が、ぎょうさんおるからね。リングの上で撃たれるかもしれん」

 だが、力道山は、断わった。

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「お気持ちはありがたいんですが、待ってくれてるファンがいますから。わしは、プロレスで飯を食ってる人間です。リングの上で撃たれて死ねれば、本望ですよ」

「おいおい、チビ、どうする」

 田岡は宍倉を、困った顔で見つめた。

「いや、プロレスは、わたしのもんじゃありませんから。オヤジがそういう以上、任せるしかないんじゃありませんか」

 宍倉が無表情で答えると、力道山がおなじような顔で彼を見返してきた。

「なあ、チビ、しょうがねえよな」

「ええ、しょうがないですよ」

 その日、力道山は、リキ・スポーツパレスのリングに上がった。訪韓の余韻など、みじんも見せなかった。

 何十人とリングのまわりで身構えていた山口組の手の者たちは、ついに動くことはなかった。

力道山をサポートしていた児玉誉士夫 ©文藝春秋

大日本興業の組員との喧嘩の末、腹部を刺され死去

 昭和38年12月8日の夜、「ニューラテンクォーター」にいった力道山は、ひさしぶりの酒でしたたかに酔った。居合わせた小林楠男率いる大日本興業(のち住吉一家小林会)の組員と喧嘩になり、腹部を刺された。

 2度の年術をおこなったが、12月15日午後9時50分頃、息を引き取った。死因は、穿孔性化膿性腹膜炎とされた。

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