昭和最大の黒幕として、政界や経済界に絶大な影響力を誇った児玉誉士夫。7歳で母を亡くし、関東大震災で父を亡くして孤児となった児玉は戦前、中国・朝鮮半島で暗躍。戦後は自民党創設にも関わり、ロッキード事件で倒れるまで日本の政財界に影響を持ち続けた。
「事件の陰に児玉あり」と言われるほどの影響力があった児玉誉士夫とは、いったい何者だったのか。ここでは、児玉の生涯に迫った大下英治氏の著書『児玉誉士夫 黒幕の昭和史』(宝島社)より一部を抜粋。“日本一の右翼”児玉誉士夫と、“伝説のプロレスラー”力道山の関係を紹介する。(全3回の2回目/3回目に続く)
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力道山が、自分の出生を隠しつづけていた理由
昭和38年(1963年)になると、にわかに力道山の身辺も騒がしくなった。日本人にとってだけでなく、朝鮮半島に住む人々にとっても祖国の英雄である力道山には、何度も韓国訪問の話が執拗に舞い込んできていた。
韓国政府からの招待にはちがいなかったが、問題があった。ヤクザ組織などが、こぞって自分のルートで行ってくれといってきたのである。6つほどのルートがあった。
力道山は、断わりつづけていた。自分の出生を、隠しつづけなければならないからである。韓国に行ったことが公になれば、その問題が取り沙汰されるに決まっている。
日本の英雄が、じつは日本人ではなかったというと、ここまで盛り立ててきたプロレスの人気が落ちてしまうと考えていた。
だが、興行面で世話になっている山口組3代目田岡一雄や、長い付き合いをしてきた東声会会長の町井久之の強い要請もあって、極秘で訪韓することを決めた。
ただ、田岡ルートか、町井ルートかで、ギリギリまでもめにもめた。児玉誉士夫があいだに入って、ようやく決まったのは、田岡のルートであった。