昭和最大の黒幕として、政界や経済界に絶大な影響力を誇った児玉誉士夫。7歳で母を亡くし、関東大震災で父を亡くして孤児となった児玉は戦前、中国・朝鮮半島で暗躍。戦後は自民党創設にも関わり、ロッキード事件で倒れるまで日本の政財界に影響を持ち続けた。
「事件の陰に児玉あり」と言われるほどの影響力があった児玉誉士夫とは、いったい何者だったのか。ここでは、児玉の生涯に迫った大下英治氏の著書『児玉誉士夫 黒幕の昭和史』(宝島社)より一部を抜粋。児玉誉士夫と、“伝説のプロレスラー”力道山の関係を紹介する。(全3回の1回目/2回目に続く)
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「児玉先生、力道山に、なんか注意してくださいよ」
児玉が後ろ楯としている、新宿を拠点とする東声会(のちに東亜会)会長である町井久之があるとき、プロレスラーの力道山を、児玉のところに連れてきた。
在日韓国人の町井は、韓国人の仲間たちからは、“ファンソ”と呼ばれて尊敬されていた。“ファンソ”というのは、韓国語で、オスの猛牛の意味である。
戦後、銀座を中心に暴れまわっていた頃から“銀座の虎”とも呼ばれていた。町井は、終戦直後、銀座に進出、急激に台頭した外国人の勢力を集め、のし上がっていった。銀座に進出したときは30人そこそこであったが、胆力と知力にものをいわせて、わずか数年で1500人もの構成員を擁する大組織に急成長した。
町井は児玉誉士夫と深いつながりをもち、児玉とともに日韓国交正常化の舞台裏で暗躍していた。韓国の朴正煕大統領と親しく、児玉と朴大統領の橋渡しをしたともいわれる。
児玉、町井は、岸信介をはじめ、大野伴睦、河野一郎、川島正次郎ら、いわゆる韓国ロビーといわれた政界の実力者たちと韓国との橋渡しもしていた。
その町井が、あきれ顔で児玉にいった。
「この力道山というのは、とにかく乱暴者で、酒を飲むと手がつけられなくなるんだ。児玉先生、力道山に、なんか注意してくださいよ」