児玉が「自民党から出たカネを、勝手なことをするわけがない」と言い切ったワケ

 児玉は、稲川の眼をジッと見ていった。

「わたしと苦楽をともにしてきた妻が、安保のさなか、車にはねられ、死ぬか生きるかの瀬戸際だった。わたしは、その頃は妻の看病で、病室から一歩も外へ出ていない。そのわたしが、自民党から出たカネを、勝手なことをするわけがない。おれを信じてくれ」

 児玉は、安保騒動がすんだら、夫婦でアメリカに旅行し、帰国後は箱根に引っ込んで後輩の指導でもして余生を送るつもりであった。が、安都子は、5月31日に自動車にはねられ、広尾の日赤中央病院に入院した。児玉は、つきっきりで看病したが、6月13日、ついに彼女は息を引き取った。

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 アイゼンハワー大統領訪日中止の決定した6月16日には、池上本門寺で妻の葬儀をおこなっている。児玉は、そのとき、妻といっしょに自分の葬儀も出した。いわゆる生葬いであった。

 妻の墓に、児玉の命日、昭和35年6月13日、享年49歳と彫り込んでいた。さらに、比翼塚までつくっていた。

“日本一の右翼”と言われた児玉誉士夫 ©文藝春秋

「稲川君、近いうち、時間をつくってくれないか」

 児玉は、いま一言いった。

「そのカネの動きについては、わたしも、うすうす噂は聞いている。そのへんの事情は、川島君に会わせるから、よく訊いてくれ」

 川島正次郎は、安保のとき、自民党の幹事長をしていた。

 稲川は、きっぱりといった。

「その必要は、まったくありません!」

 稲川は、児玉の眼をまっすぐに見ていった。

「よくわかりました」

 それから、深々と頭を下げた。

 児玉は、いままでの射るような眼をなごめ、稲川に声をかけた。

「稲川君、近いうち、時間をつくってくれないか。ゆっくり話し合いたい」

 稲川も、胸を弾ませていた。

「よろこんで、おうかがいいたします」

次の記事に続く 「おれはヤクザ者だ」「オヤジに何かあったら体をかけて守る」“伝説のヤクザ”稲川聖城と“日本一の右翼”児玉誉士夫の深すぎる関係性

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