蓮實 そういうことです。
――すごく分かります。僕はアニメと両方やっているんですけど、アニメの監督がよく実写を撮りたがるのはそういうことだなと思っているんです。全部コントロールできるし、しなきゃいけないアニメに対して、実写の撮影というのはその瞬間に奇跡のように起こったことがカメラに記録されていることだと思うので。それを求めてアニメの監督も、全部コントロールするのに疲れて実写を撮るのかなと。
蓮實 そうでしょうね。
――特にCGはカメラも照明も監督が指示すればいくらでも変更できるので、恐ろしいんですよ。
蓮實 本当に恐ろしいでしょうね。どこまでやるかということの判断が監督に全部任されるということですから。
――そうです。実写の場合はカメラマンが女房役でいて、その人に任せて現場で画が決まりますが、CGの場合は最後までいじれちゃうから、「本当にそれでいいの?」と問われ続けるんですよね。
蓮實 なるほど。監督があきらめたからそれが最後になったのか、それとも監督がOKと判断したからそれが最後になったかということが分からないわけですね。
――そうですね。ベストってどこで言えるんだろうという。
蓮實 でも、それはきりがないですね。
――きりがないですね。そういう意味で、映画とは別物とおっしゃるのもすごくよく分かるんです。タイプが違うものですよね。
蓮實 そう。コントロールしようと思えばどこまでもコントロールできる。でも、コントロールできるにしてはコントロールしてないところまで見えたりするので、アニメというのはどうも苦手なんです。
自分の意志を超えて画面に取り込まれているもの
――実写の場合、スタッフやキャストや天気やすべての環境の集大成なので、やっぱり映画と呼べるのは実写だという意見はすごくよく分かります。
蓮實 つまり、映画が1895年に「シネマトグラフ」として始まった時に、シネマトグラフというものが撮った後どうなるか分からないけれど撮っちゃったわけでしょう。そして、撮っちゃったことによる事件性というのがいろんなところにはじけているわけです。『列車の到着』(注1)にしても何にしても、要するに、監督が絶対にすべてをコントロールできないのが映画だと。しかし、肝心なところをコントロールしない場合は、それは監督ですらないということになるのですから、矛盾しているわけです。その矛盾をどう生きるかというのが映画であるような気がしているんですけどね。
