――『列車の到着』は狙いがあって撮ってはいるんだけれども、実際にどうなるかやってみないと分からないし、だからこそその動きを見ていて面白いということですね。
蓮實 そう。だから、何度見てもドキドキする。
――それが映画の原点だし、本質だったということですか。
蓮實 そういうことです。
――監督がどこまでコントロールするべきかということで言うと、僕は自主映画の時はカメラも自分が回すし役者も素人だから、全部監督が仕切るものだと思っていたし、自分のイメージ通りになるまで何度も撮り直すことが大切でした。ところが初めて商業映画を撮った時、時間の制約もあるし、撮り切ることが最優先で妥協してOKしないといけないのかと落ち込みました。でも、それはプラン通りに撮ることに拘っていたからだと後から気づいたんです。商業映画ではプロのスタッフやキャストがいるのだから、監督はもっと頼るべきなんですね。
蓮實 でも、8ミリを撮っていらしたとき、これを全部自分が支配しているつもりだというふうに撮ってはいるけれども、例えば被写体となっている人にもそれなりの意志や配慮があるわけじゃないですか。そういうところにはある種の妥協が生まれがちなのですが、その妥協がないと、映画の真の面白さって出てこないような気がする。どこかで何か妥協した時に、それは妥協ではなくて真の決断だったかもしれないとか、そういうものがあるような気がしている。ですから、「妥協」というものに対する姿勢を映画が変えてくれたというような気がしております。
――妥協ではなく、その状況の中で現場が生んだ最高のショットでいいんですね。
蓮實 そういうことだと思います。そうした事態を全部自分が仕切れるなどと思っちゃったら、ほんとつまらないと思う。映画が貧困化してしまいます。映画が豊かであるためには、自分以外の何かが自分の意志を超えて画面に取り込まれているのですから、ひとりひとりの映画作家が、そのことを未知の現実として驚くということがあって当然だと思っています。
注釈
1)『列車の到着』 1895年にリュミエール兄弟によって作られた史上初の映画。正確には、『ラ・シオタ駅への列車の到着』。