いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちに8ミリ映画など自主映画時代について聞く好評シリーズ。特別編・蓮實重彦氏インタビューの最終回は、「撮影の映画」「演出の映画」をめぐる対話が、映画の本質に迫っていく。(全4回の4回目/最初から読む) 

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〈撮影の映画〉と〈演出の映画〉、監督はどこまで映画をコントロールすべきか

――先生は「映画には〈撮影の映画〉と〈演出の映画〉の2種類がある」と言われています。自主映画は監督が自分で全部やらなくてはいけないので、自主映画出身の監督は〈演出の映画〉を志すことが多い気がします。〈撮影の映画〉というのは、具体的に言うとどんなことですか?

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蓮實 これは、『ショットとは何か』(講談社 2022)という最近の書物でも述べたことですが、「演出」とは、誰もが抱えているはずの意識だの、心理だの、内面だのをどのように見せるかが問われる技法であり、これは映画に限られたものではありません。演劇においても、オペラにおいても「演出」は存在しています。ところが「撮影」とは、映画だけに特有な技法です。とにかく撮ることが最初にあります。ところで、「撮る」とは時間的な体験です。撮るに従って、撮っている主体も、撮られている客体も変化する。その変化を取り込むことで撮っている主体も変化するという点が、わたくしのいう「撮影」の映画の魅力なのです。わたくしが「演出」の映画より「撮影」の映画のほうを高く評価している理由は、まさに変化しつつある現実を撮っちゃったという、自分自身に対する驚きがあるというようなことです。それに対して、「演出」の映画というものは、それがうまくいった場合には映画として面白いものが撮れるけれども、それよりは撮影、撮ることに徹した映画というのをわたくしは求めたいと思っているのです。もちろんそこに素晴らしい演出があるから撮影が生きるということはありますけど、ね。

――先生はアニメと映画は別のものだとも言われていますが、〈撮影の映画〉というのは演出の意図を越えて撮った時の状況、空気感が映り込んでいるという意味で、アニメにはない、ドキュメンタリー的な面白さがあるということですか?