いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちに8ミリ映画など自主映画時代について聞く好評インタビューシリーズ。70~80年代にかけ行われた立教大学での蓮實重彦氏の講義からは、多くの映画監督が育った。授業で上映された8ミリ作品を、蓮實氏はどう見ていたのだろうか? (全4回の2回目/3回目に続く) 

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8ミリから35ミリに行ける人たちだという強い確信があった

――当時、授業では毎年、大体学年末になると8ミリ上映をやっていましたが、あの頃の8ミリ映画にどんな感想をお持ちですか?

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蓮實 学生たちの撮った8ミリを見ながら、これは絶対に16ミリから35ミリに行ける人たちだという強い確信がありました。教師として、途方もなく恵まれていたと思います。では、わたくしがそういう人たちを育てようとする気概があったかというと、そういうこととは全く別に、この人たちは「何か持っている」ぞ、という気持ちばかりが強くしていました。他の大学、例えば、東大などで教えても、そういう感じの人は誰もいませんでした。なぜか立教の人たちだけは、絶対に「撮れる人」たちだと確信していました。実際、周防さんなんて、すぐ撮っちゃったわけですから。

©藍河兼一

――僕が現役の頃、周防(正行)さんは高橋伴明さんの助監督をやっていて、周防さんに頼まれて僕らが教室を借りて、伴明組が来てピンク映画の撮影をしたことがあります。カラミを撮るので僕らは見張りをしたり、エキストラをやったり。周防さんがピンク映画でデビューするのはその少し後ですね。(注1)

蓮實 やはり8ミリって、セルロイドのフィルムがあるわけじゃないですか。それを物質として扱うということと、ビデオで何とか処理してしまえるということとの違いは大きかったと思います。手作りの面白さと言ったらいいでしょうか。この人たちは、全員が手作りの面白さに惹かれているという感じが立教では強くしました。手作りをやっていながら、篠崎(誠)君なんて、非常にうまい画面を繊細に撮ることができる人だったし……。塩田明彦の場合は、彼の長編第1作『月光の囁き』(1999)がロカルノ国際映画祭に出品されたとき、たまたま現地に行っていたので再会できて感動した記憶があります。