江戸でただひとつ公認された遊郭が吉原だったが、現実には、非公認の女郎街「岡場所」が、江戸だけで何十カ所もあり、多くの私娼が働いていた。それだけではない。岡場所で働くことができず、路上に立つ女性もいた。そんななかでも最下層の街娼が、捨吉の母親がやっていた「夜鷹」だった。
岡場所では通用しなくなった女性が務めることが多く、路上に立ち、客をつかまえると物陰にむしろを敷いて性行為をした夜鷹は、揚げ代が16文から24文と、そば一杯分の価格だった。吉原の大見世の花魁と遊ぶ200分の1、300分の1という金額で遊ぶことができた。
「売春する美少年」の大流行
一方、それは下層社会の象徴であった。野外で商売する夜鷹には、用心棒がついていることが多かったが、それはたいてい夫だったという。そば一杯分の値段を夫婦で稼ぎ、それも妻が体を売って稼ぐ。また、妊娠すれば働けなくなるので、妊娠した夜鷹は冷たい川に浸かるなどして、強引に流産しようとしたという。
だが、それでも子供が生まれてしまった場合、子供がひどいあつかいを受けたことは想像に難くない。すでに吉原が十分に過酷でいびつな世界だが、その何倍も過酷でいびつな世界があったことが、捨吉をとおして描かれたのである。
捨吉はこの時代に盛んだったほかの面も象徴していた。「陰間」である。「陰間」とは売春する美少年のことで、18世紀以降、江戸でも陰間茶屋が大いに流行し、蔦重の時代に全盛期を迎えたといわれる。
意外なことに、日本では古来、男色がモラルに反するという認識があまりなかった。色道を探求するなら、女色だけでなく男色も、という考えがあり、たとえば、多くの戦国大名も男色を楽しんだ。江戸の男性も躊躇なく男色に耽るケースが少なくなかった。
歴史ドラマの描写として真っ当
このため、江戸だけでも何百人という陰間がいたという。ただ、男らしい肉体になると需要が減るため、12歳、13歳という少年のころから客をとった。客は男性とはかぎらず、未亡人や尼を相手にすることもあったという。