「握り」「飛ばし」が常態化

 バブル期、企業の「財テク」ブームに乗って預かり資産を増やそうと、利回りを約束した上で顧客の資産を運用する「握り」を重ねた。その約束が、米国の株価大暴落「ブラックマンデー」(1987年)の頃から果たせなくなる。

 そこで、含み損が出ると、決算期の異なる別の会社やペーパーカンパニーに有価証券を移して株価の回復を待つ「飛ばし」を繰り返した。損失をぐるぐる回しているうちに、簿外債務は2600億円を超えていた。

 さらに1997年7月、総会屋への利益供与事件で東京地検特捜部の強制捜査も受けた。信用は地に落ち、山一は自主廃業に追い込まれた。

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「いずれ破綻すると分かっていたはずなのに、旧経営陣は不正を隠蔽し、問題を先送りした」。永野さんは旧経営陣の浅はかさに失望した。だが、支店に身を置いていた自分も、危うさは認識していた。

 バブル期、「利回り予想」を強調した本社のパンフレットをもとに、投資信託を販売したことがあった。「実質的に利回りを保証したようなもので、あれは握りともいえる。おかしいなと思ったが、『大丈夫だから』という本社の指示で、ぼくも売った。組織的な不正は知らなかったが、廃業に至ったことには、山一社員の一人として責任を感じる」と振り返った。

 野澤社長の「涙の記者会見」のおかげか、自主廃業が決まった山一には多くの求人が寄せられた。

 千葉支店の部下たち約80人も、顧客への清算業務をやり遂げた後、それぞれ新たな職場に移っていった。

 全員の再就職を見届けた永野さん自身は、1998年4月、メリルリンチ日本証券に移った。しかし、すっかり燃え尽きていた。午後になると、「今日はどこの店で飲もうか」と考える毎日。「いま考えても、最低なサラリーマンだった」

次の記事に続く 「真の山一のDNAは…」再就職がうまくいかない仲間を助けるため人材派遣会社を立ち上げ…くすぶっていた“元・山一證券No.1営業マン”を復活させた「ある事件」

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