「どうなっているんだ!」と怒号が飛ぶ中、ふと気づけば、ライバル会社の営業マンが「うちなら大丈夫」と顧客の取り込みにかかっていた。
ハゲタカめ――。頭に浮かんでのみこんだ言葉に、ハッとした。「そうか、この会社はもう死ぬんだ」。死肉が食い尽くされるような光景に、会社の破綻を実感した。
田んぼの中で「料亭はどこだ!」
大学時代、新宿の料亭でアルバイトをしていた永野さんは、「証券マンになれば料亭遊びができそうだ」という理由で、1982年に山一に入社した。
しかし、初任地の岡山支店で営業の厳しさを思い知る。顧客を新規開拓するため、重たい自転車のペダルをこいで、飛び込み営業を続けた。田んぼの中の夜道を走っていると、自転車のライトに寄ってきた虫が口や目に飛び込んでくる。「料亭はどこだ!」と叫んでいた。
証券会社の主な収入は株売買や投資信託の手数料だ。常に数字を求められる日々をめげずに頑張れたのは、身長約1メートル80センチの体格と、少林寺拳法部で鍛えた体力のおかげ、だけではない。
「お人よしばかりの山一が大好きでね」
人の山一──。1897年に「小池国三商店」として創業した山一證券は、顧客の信用を第一に掲げていた。営業の押しの弱さから「お公家証券」と揶揄されることもあったが、自社の利益のために顧客に損を押しつけるようなことをしない山一の社風が、永野さんには合っていた。
それに、社員同士も家族のように関わり合う。
岡山時代、永野さんは仕事が終わると先輩にホルモン屋に連れて行かれ、ビールを飲みながら株価チャートの書き方を教わった。「これが株価の上放れ(上昇)だ。これは三尊(株価の天井)って言うんだぞ」。教えはその場で書き留めた。
岡山で3期上の先輩だった楠本俊憲さんは、「大柄な体で、『楠本さん、楠本さん』って2回ずつ言うんだよ。豊臣秀吉のように懐に入る力があったなぁ」。
永野さんは、株の銘柄をまとめた独自の資料を100枚印刷し、「配り終えるまで、きょうは帰らない」と決めて顧客を回った。飛行機が苦手な得意先の社長の出張日には、自宅に〈朝駆け〉して、交通安全のお守りを手渡した。
そんな地道な努力で営業成績を伸ばし、新宿駅西口支店の営業主任だった1990年には、経済誌で「預かり資産100億円」のトップセールスマンと紹介されるほどに。同支店で売上伝票の管理をしていた佐野淳子さんは「永野さんのスーツの裏地には『昇り竜』が刺繍されていて、売り上げが他の社員とは1桁違っていた。ダントツのNo.1営業マンだった」と証言する。
しかし、山一はこの頃、破滅への道を進んでいた。
