「いま考えても、最低なサラリーマンだった」。預かり資産は100億円、かつて山一證券の“No.1営業マン”だった永野修身さん。しかし度重なる不正行為によって、1997年11月に山一證券は廃業に追い込まれる。

 転職後に考えることは、毎日「飲むこと」ばかり。その後、彼はどんな人生を生きたのか…? 読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた新刊『「まさか」の人生』(読売新聞社「あれから」取材班著、新潮新書)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

1997年11月、記者会見で頭を下げる山一證券の経営幹部たち ©時事通信社

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「山一は自主廃業することになった」

 1997年11月22日、土曜日の早朝。山一證券千葉支店の副支店長だった永野修身(おさみ)さん(当時39歳)宅の電話が鳴り、本社の上司がそう告げた。

「自主廃業ってなんだ? 全然わからない」

 部下を引き連れた前夜のはしご酒のせいで、頭が回らない。とりあえずバーボンウイスキー「I・W・ハーパー」の封を切った。混乱したままグラスに注ぎ、一杯、また一杯と飲み干していく。気づけばボトルは空になっていた。

 創業100年を誇り、四大証券の一角を担った名門の経営破綻が記者会見で発表されたのは、その2日後。巨額の簿外債務が明るみに出た。永野さんを含め、約7500人いた社員は全員、職を失うことになった。

「社員は悪くありませんから!」

 永野さんはあの記者会見をテレビで見て、呆然とした。

「社員は悪くありませんから!」。自主廃業を発表し、何度も頭を下げる野澤正平社長は、新宿駅西口支店で営業マンをしていた頃の支店長だった。

 営業一筋の野澤さんは、むやみに大きな取引を狙うのではなく、同じ銘柄をコツコツと買い足す資産運用「ドルコスト平均法」を好み、顧客に勧めていた。

 支店の営業ノルマの締め切り前、もうどうしたって目標額に到達できない状況であっても、「あきらめないで、最後までやろうじゃないか」と部下を鼓舞し、地道に努力を続ける人でもあった。

 その野澤さんが、世間の批判を一身に浴びて謝罪している。3か月前に社長に就いたばかりで不正は知らなかったが、記者会見では、自分たち社員をかばって涙を流した。

「会社は手遅れでも、せめてひたむきに頑張ってきた社員のプライドは守りたい。そんな思いが伝わってきた」

 翌朝、千葉支店の前には資産の引き出しに顧客が殺到した。