『チョッちゃんが行くわよ』(主婦と生活社、1982年刊行)によると、2人の出会いは昭和2~3年、朝が東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)3年の頃、山田耕筰(こうさく)が行っていた日本楽劇協会のオペラでコーラスガールのアルバイトをしたときのこと。ソリストやオーケストラの人たちとも親しくなる中、オケでバイオリンを弾いていた黒柳守綱(もりつな)(自伝では常に「パパ」と表記)と出会った。

たびたび、お茶や映画に誘われるうちに、結婚の申し込みを受けました。結婚などまだ考えてもいなかった私は、主人の熱烈な求愛をマンザラ悪いことでもなく、また、いいことでもないようなハンパな気持で聞いていました。私は、家を買うときなど、考えるよりも行動のほうが早い性格の反面、自分の行動が人を傷つけたり悲しませたりするかもしれないという事柄に対しては、むしろ臆病なくらい煮えきらないところがあるのです。結婚のときもそうで、だんだんまわりの反対が起きてくると、もうそのほうがつらくて自分はどうでもよくなってしまいます。(『チョッちゃんが行くわよ』)

チョッちゃんはクリスチャンで結婚の条件に入信を勧めた

そんな中、朝は守綱が「テコでもひかない熱心さで、しゃにむに強引に事を運ぶのを、はっきりしない態度で見ていた」と記している。

ADVERTISEMENT

また、熱心なクリスチャンだった母が結婚に対して出した条件は、守綱がクリスチャンになることだったが、守綱の父は亡くなっているものの、朝の父と同じく医師で、おまけに熱心なキリスト教徒だったことから、信仰の面の問題はクリアに。

その後、朝の母とも相談し、守綱の叔父が3日がかりで北海道の朝の実家まで結婚の申し込みに行ったが、朝の父は激怒。父は怒りを妻(朝の母)にぶつけ、大変な騒ぎになったと記している。

自伝に書かれた「人さらい」の「略奪婚」だったという話

しかし、こうした経緯は、だいぶ事実を丸めて書いたきれいごとの印象もある。