2年目の夏にとある検査にひっかかった

 大人たちは言う。「セックスを対価に何かを得てはいけないよ」と。  

 大抵の人が「金銭感覚がおかしくなる」だとか「危ないことに巻き込まれるよ」と口を揃えて言ってくるが、あまり理解ができなかった。労働をしてお金を得るという構図は同じであるのに、なぜこんなにも騒がれるのだろうか。若さと女という肉体を切り売りできるうちに、自分が手にする利益を享受できるうちに、使えるものは使った方が良いと考えていた。行きずりの誰かと何も生まないセックスをするぐらいなら、何か自分にリターンが返ってくる方がましだと。そのように信じて疑わなかった。 

写真= 佐藤亘/文藝春秋

 しかしながら、それが間違いだと気がついた頃には、大事なものをいくつか失っていた。肉体的なことで言えば、詳しいことは記さないが、女優として迎えた2年目の夏にとある検査にひっかかった。「大したことはないだろう」と高を括っていたが、結果的に今も年に何回か大きな病院で検査を受けないといけない。

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 女優だったからという因果関係は認められないが、精神的には簡単に割り切れない。他人に易々と身体を差し出した代償が自分に降りかかってきて、直感で「自業自得だ」と思った。身体的なサインを受け取って初めて「ああ、自分を大事にしないといけないんだな」と悟った。ただ、身体に関しては定期的に医者の元に行けばどうにかはなるので、私にとっては正直そこまで厄介ではなかった。 

「私」を消して「理想の女の子」に

 それ以上に私が手を焼いているのは、セックスに対して何も感じなくなったことだ。快楽というよりも、セックスに付随するはずだった喜びだったり、悲しみだったり、そういったものがあまり感じられないのだ。すべての感覚が鈍化している気がする。まあ、そうなるのも無理がない。 

 だって「私」として、相手とセックスしていないのだから、しょうがない。 

写真= 佐藤亘/文藝春秋

 仕事のとき、事前に与えられた情報をもとに「この子だったらこんな立ち回りをして、こんな風な言葉を相手に言うだろうな」と理想の女の子の存在を作り上げて、スタートの合図と共に「私」を消して、「理想の女の子」になりきってセックスしてきた。カメラが回っているのもあって、常に自分のことを第三者の視点から俯瞰で見るようにしていた。その方が仕事がしやすかったし、もちろん作品のクオリティは上がり、私の評価にも繫がった。