――キャンパスの中でスカウトがあるというのは日本だと考えられませんね。怪しい人とかは入ってこないんですか?

ネトーチカ 大学のキャンパスで、ちょっと怪しげなインド人の方に声をかけられたことがあって、友達と一緒にヨットのパーティーに招待されたんです。普段の学生生活では考えられないような体験で、少し驚きました。初めて見るような食べ物もあって、夢の中にいるような気分でしたが、話の内容がだんだんおかしいと感じて、すぐに友達と一緒に帰ることにしました。 

大学院卒業後、故郷に住み続けるつもりだったが…

――大学では何を学んだのですか。

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ネトーチカ 大学では住宅やマンションなどの一般的な建物の建設を学び、大学院では海港建設を専門にしていました。建築デザインではなく構造設計の分野でした。

 私が生まれたオデーサは大きな港町で、大学院を卒業した後は港で設計や建築の仕事につきました。実は姉も私と同じような道に進んでいて、母に姉を見習うよう言われ、深く考えることなく、同じ道を辿りました。ウクライナでは他の方法で生計を立てるのが非常に困難だからです。

©細田忠/文藝春秋

 本当は文学が好きで、アジア文化を学びたかったのですが、母に反対されました。実際、アジアの言語の翻訳者などで生計を立てるのはウクライナではほぼ不可能だと思います。

――ネトーチカさんは当時、オデーサに住み続けるつもりだったんですか?

ネトーチカ はい。ロシアとの戦争前はヨーロッパや日本に旅行をしたり、ノルウェーに留学もしていました。オデーサでの仕事は給料も良くて、充実した生活を送ることができていました。