この苦しい行軍の途中、やなせは新聞記者であった父のことを思った。やなせが歩いた道は、父が上海の東亜同文書院に留学し卒業した時の調査旅行で通ったルートと似ていたためだ。やなせ自身、上海で終戦を迎えたこと、父が上海支局に長い間いて、アモイで亡くなったこともあり、「父に呼ばれた」と感じていたのだ(『何のために生まれてきたの? 希望のありか』PHP研究所)。

マラリアにかかり、厚さ2センチになった足の裏の皮がはがれた

上海近郊に到着、決戦準備をする頃、行軍途中で蚊帳を捨ててしまったためか、やなせにマラリアの症状があらわれた。40度以上の熱が続き、意識がもうろうとする中、珍しい経験をしたと言う。その記述が強烈なので引用したい。

「長い行軍で、まるで靴底のように分厚くなっていた足の裏の皮が、まるごとぼろっとはがれたのだ。見ると、厚さが2センチほどもある。『うわあ、まるで象の皮みたいだ。人間のからだって不思議だなあ』嵩はすっかり感心してしまった」(『やなせたかしの生涯』)

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命の危機に瀕してもなお好奇心を失わないのが、やなせらしさであり、やなせの「強さ」だ。しかし、そんなやなせにとって最大の苦しみは、飢えだった。

上海決戦に向けて食糧を切り詰める中、毎日の食事は朝晩2回、お湯の中に少しだけ飯粒が入ったおかゆのみだった。ひもじさのあまり、やなせは辺りに生えた草をゆでて食べ、しばしば腹をくだした。上官が飲んだ後の茶殻も食べたと言う。その苦しみについて、『やなせたかしの生涯』では「肉体的な苦痛にはいつしか慣れる。でも、空腹には決して慣れることができない。おなかがすくということが、こんなに情けなく苦しいなんて」と綴られている。

「おなかがすくということが、こんなに情けなく苦しいなんて」

1945年8月15日。やなせたちの部隊は全員集合の命令を受け、ラジオの前に整列させられた。玉音放送は雑音だらけでほとんど聴き取れなかったが、大隊長が言った。