物が溢れかえっていても、片付けができない状態

 とにかく横浜へ帰ろう。そう決心して、母が亡くなって一年後に20年暮らした東京の部屋を空にして横浜へ戻った。横浜は、両親の住んでいた家と、自分の家と二軒が空き家の状態だった。これをこれからどうするのか。大問題だ。東京に妻と二人で暮らす兄も相談にはのってくれるが、やはりこれは母と親密にしていた娘が解決しなければならないことだと思っていた。考えるだけでも押しつぶされそうな状態だったが、やっていくしかない。ひとまずは両親の家に住まいし、自分の家に毎朝出勤する、という形で住居と仕事場を分けて暮らすことにした。

 毎日そこで暮らしてはいるものの、両親の荷物はそのまま。少しずつでも片付けようとして作業を始めると、涙が止まらなくなってそれ以上続けられなかった。両親がいなくなった寂しさ、心細さは大抵でなく、常に心の中では涙が表面張力の状態で、それが少しの動揺ですぐこぼれる。気兼ねなくなんでもないことを話せる人のいなくなった日常には、そうやすやすと慣れることができなかった。

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 いっぽう横浜の自分の家も大変なことになっていた。都合20年間空き家にしていたツケで、手のつけられない状態まで物が溢れかえっていた。東京に住んでいる間じゅう、さし当たって必要ないけれど、すぐには捨てられない本や紙類をいくつもの段ボール箱に詰めて、半年か年に一度のペースで赤帽さんに頼んでは東京の部屋から横浜の空き家へ運んでもらっていた。運び込んだらあとで整理すればいいものを、しないものだからそのままどんどん箱が積まれていく。気になりながらも、目の前のことに取り紛れて、ずっとそのままできてしまった。

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 赤帽さんからの荷受けは母に頼んでいた。赤帽さんが東京を出発したところで母に電話をし、「これから赤帽さん行くよ」と伝え、部屋で待機してもらった。赤帽さんは、20代半ばで開いた最初の個展の際にお世話になって以来、もう30年のおつきあいだ。いつも変わらず気持ちのいいお仕事ぶりで、全幅の信頼を寄せられるプロ中のプロ。度重なるやりとりで、母も赤帽さんと懇意になった。母が亡くなった年の秋に個展でお世話になった際、赤帽さんは仏前にと大きな花束を持ってきてくれた。「いつもニコニコしていて必ずお茶やお菓子をもたせてもらって、本当にお世話になりました」という赤帽さんの言葉は、心にしみた。