引っ越しをしながら途方に暮れる

 東京から横浜へ引っ越そうと決心してから引っ越すまでの半年間、毎週末横浜に行っては仏壇の手入れをしたあと、自分の家を猛烈に片付けた。東京から持って帰る荷物を入れるのは、自分の家の方だけにしようと決めていた。両親の家にまで分けて入れたら、さらに収拾がつかなくなる気がしたのだ。自分の家の片付けなら、泣かなくてもできる。廃品処理業者にも二度三度と来てもらい、いらない家財も呆れるほど持って行ってもらった。紙ゴミは紐で括って捨て続けた。括っても括っても、果てしなく紙は出てくる。おかげで、紙を束ねて括る技術がしかと身についた。週明けの曜日が資源ごみの日だったのはラッキーであった。

 それでも完璧に片付くまではいかず、片付く前に、東京からの引越しの日がじわりじわりと近づいてきた。絶望的な状態だった。こっちも満杯のところに、向こうも満杯の荷物、それを一軒に押し込もうというのだから、それは無理というものだろう。引越し前の最後の週末、片付けながら泣けてきた。いったいこの荷物、どうしたらいいんだろう。

 搬入の当日、引越し業者は怒りながらもすべての荷物を部屋に押し込み、テヤンデェと帰って行った。

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 引越し業者のシステムはおもしろかった。見積もり以上に荷物があると、次々と応援スタッフを別の場所から呼び寄せる。搬出の日の朝に4人で来たスタッフが、多い時間には8人くらいになって荷物を梱包していた。そして翌日の搬入の日は、朝から10人近いスタッフが手ぐすね引いて集まってきた。

 横浜に来ても当初周りに友人はおらず、仕事はそれまでと同じ調子でしているものの、ほとんど隠遁生活。東京の暮らしとはガラリと変わった。が、当時の心持ちはかえってその状態が楽ではあった。しばらく静かに一人でいたかった。

 母が病気になってからはほとんど行っていなかった山の家にも、新しい暮らしに慣れて一年ほどたったころから、また月に一度は行くようになった。月に数日だけだが、行って季節のあれこれを見て回ったり、場所を変えて一人静かに過ごすのは気分が変わってよかった。

(第2回へ続く)

次の記事に続く 58歳からのモラトリアム。山荘での暮らしの中で、都会に残した「唯一の心残り」とは