6月13日、米国とイランの間で核をめぐる協議が続いているなかで、イスラエルは、イラン核施設への空爆を強行し、軍トップや核科学者らの要人殺害まで実行した。その後、攻撃対象を核施設だけでなく、エネルギー施設や行政施設にも広げつつある。

こうしたイスラエルの“暴走”を、自身もユダヤ系である仏の歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏は半ば“予言”し、「文藝春秋」2025年2月号で、「これ〔ガザ侵攻〕がまだ始まりにすぎず、今後、事態がさらに悪化することに気づいているのでしょうか」と警鐘を鳴らしていた。

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自己目的化した暴力の行使

〔ガザでの戦闘が始まった〕当初、私はかなり微妙な態度をとっていました。しかし、イスラエル国家の振る舞いは、道徳的にあまりにも問題があります。私はまだこのことについて話したくないのですが、今は話さなければなりません。

 ――なぜですか。

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 イスラエル国家の暴力の行使が極端なレベルに達しているからです。そして何より暴力自体が自己目的化しているように見える。ですから私は、イスラエル国家の行動を「ニヒリズム」の観点から考察し始めたのです。

 ニヒリズムとは、「虚無」の産物です。『西洋の敗北』では、米国の支配層のニヒリズムを考察しました。価値観の「空白」が、金、権力、戦争への関心の集中を生み出している。イスラエルについては、宗教的信仰の現状を十分に研究したわけではありませんが、「超正統派」の存在――その社会的・形而上学的性格は分析に値します――にもかかわらず、おそらく「宗教的空虚」が社会を覆っている。細かな違いはありますが、〔「宗教の活動的状態」ではなく、むしろ「宗教のゼロ状態」を示しているという意味で〕「超正統派」は米国の「福音派」と似た存在と言えるでしょう。「イスラエルを拡大すればキリストが戻ってくる」と考えてイスラエルを支持する米国の無知な人々については……。

エマニュエル・トッド氏

 最近の多くの概念は、装いは形而上学的であっても、「宗教のゼロ状態」の産物として解釈されなければなりません。ここで言う「宗教」とは、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教といった古典的な一神教のことです。歴史的視点からの現状分析において私は、「カトリシズム・ゼロ」や「プロテスタンティズム・ゼロ」だけでなく「ユダヤ教・ゼロ」についても語り始めました。やがては、「イスラム教・ゼロ」についても語ることになるでしょう。

 イスラエルにおける真の意味での「宗教的価値観の欠如」を形式化するのは、私にとってはたやすいことです。私の手元には、私の先祖でボルドーの首席ラビだったシモン・レヴィの著書『モーセ、イエス、マホメットと三大セム系宗教』(1887年刊)があります。先祖の話として、また印刷物の形で遺されたものとして、ユダヤ教の価値観に直接触れることを可能にしてくれる本です。

 今や西洋は、米国や欧州のニヒリズムの原因となる「宗教のゼロ状態」に達しています。同じ歴史的論理がイスラエルにも当てはまる。イスラエル国家の振る舞いが私に想起させるのは何か。社会的・宗教的価値観を失い(「ユダヤ教・ゼロ」)、国家存続のための戦略に失敗し、周囲のアラブ人やイラン人に対する暴力の行使に自己の存在理由を見出している国家です。

戦争自体が自己の存在理由に

 ――自己目的化した戦争ということですか。

 私は『西洋の敗北』でウクライナに適用したのと同じ解釈をイスラエル国家に適用したい。ウクライナはロシアによる侵攻以前から破綻国家でした。にもかかわらず、ウクライナ人が凄まじい戦意と強靭な軍事的抵抗力を示したことに誰もが驚きました。これは何を意味するか。ウクライナにとって、ロシアとの戦争自体が自己の存在理由になっていることです。ウクライナ側の態度は、すべてロシアによって規定されています。ただしネガティブな意味において。ロシア語を排斥し、ロシア人と戦い、ドンバス地域のロシア系住民を服従させることに、自分たちの存在意義を感じているのです。

 これらはまだ仮説にすぎませんが、イスラエルは国家としての意味を見失い、かつては国家の安全保障に不可欠な軍事手段だった「暴力の行使」が、自己目的化してしまったという印象を受けます。