勅使川原 はい、これは特に痛快かつ重要なご指摘でした。教育がコンプレックス産業化していますよねってことは私も言っているし、誰でも言える。でもおおたさんの本はその先を行っているんです。特に二つの意味で。一つは、家庭に教育を任せっきりにする前提に疑問を呈している。もう一つ。いい学校に行って、いい仕事に就いて、いっぱいお金をもらえたらしあわせだということを多くのひとは当たり前のこととしているなかで、その職業を媒介した能力主義的配分こそを変えようと訴えている。

おおた 競争社会ということは、要するにライバルに差をつけろという社会なんです。その差の代名詞が「偏差値」だったわけじゃないですか。それが「生まれ」に相関していることを教育格差と呼んでいた。こんどは体験格差。偏差値だけじゃなくて、子どもの体験の「差」にまで社会的な注目が集まってしまった。

 親ガチャのハズレを引いた子がいますよと。そこにお金を与えて、機会を与えるから、そのチャンスをものにして、能力を高めなさいと。そして貧困の連鎖から抜け出してねって。これ、自己責任化ですよね。社会の歪みのせいでできちゃった格差を埋める責任を、苦しんでいるひとたちの努力に押しつけていいの? しかも、それで負の連鎖が止まるとしたら、その子どもが大きくなったときだから、20年後、30年後じゃないですか。

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 格差はいまの政治課題です。教育で格差を解消しようっていうのは問題のすり替えです。教育社会学でよく使われる言葉だと……。

勅使川原 「社会課題の教育化」ですね。

おおた 論点のすり替え、問題の先送り。それにみんなで加担しちゃっているんじゃないの? ……というのが私の『子どもの体験 学びと格差』の主旨ですね。

©文藝春秋 撮影/鈴木七絵

いちばんの罪は子どもから学びの喜びを奪うこと

勅使川原 いやー、よく言っちゃいましたよね、それ。教育社会学は公平(equity)の観点からはいっぱい考えてきましたけれど、公正(justice)についての議論はあまりされていない。それをこんなに説得性をもちながら展開できるのは、現場取材がベースにあるからだと思います。

 私自身、『格差の“格”ってなんですか?』という本の中で、「格差格差っていうけれども、格の違いっていうこと自体がちょっと特権的じゃないか」という指摘を恐る恐るやっていますけれど、私の論理だとそれぐらいしか言えなかったなという反省もあるんですよ。だけどおおたさんは今回の本の中で、行動遺伝学者の安藤寿康さんにまで話を聞いて、格差そのものをなくすことはできないんだって言い切っちゃった。

おおた 行動遺伝学の威を借りて(笑)。

勅使川原 職業によって収入に大きな差をつけて競わせるのではなくて、誰でも尊厳をもってしあわせに暮らすのに十分な稼ぎが得られる社会にしていけばいいじゃないかと。仰る通りですよね。

おおた わざわざ「格差」なんて言葉で構造化しなくても、やりたいことができない子がいたら、それは普通に助けてあげればいいじゃないですか。

勅使川原 そうだ!