おおた 格差っていった瞬間に、もう「子育ては競争だ」って意味を含んでますよね。
勅使川原 格の違いって言っているんですからね。
おおた そうしたら親としては、「格の上のほうにしてあげなきゃ。少しでもお金があるんだったら課金しなきゃ」と考えて、中流層であったってギリギリまで家計を削って、子どもの習い事や体験学習にお金をかける方向に行っちゃう。そうしたら結果、金額的な差はますます広がりますよね。「何やってるの?」って感じ。
勅使川原 でも難しいですよね。「格差をなくすためにお金を集めよう!」っていうほうがわかりやすくて、賛同を得やすい。そこに対して、私たちの論をどうやって盛り立てていこうかなって。お金にならないことってこの世の中で流行らないから。
おおた 流行らせようとか盛り立てていこうとか思うと続かないですよね。
勅使川原 ぐさり。そうだ……。
おおた 大きな成果を焦ると、大衆の耳目を集めやすい強引なロジックを声高に喧伝しちゃうことになる。だけど、「たくさん体験をして非認知能力を高めないと将来困っちゃうから、だから助けてあげなければいけない」みたいな理屈をくっつけた瞬間に、支援対象の子どもたちは「自分はみんなよりも能力が低いまま大人にならなければいけないんだ。不利な人生なんだ」と思ってしまうでしょ。それって子どもからしてみたら、めちゃめちゃ怖いですよね。
勅使川原 呪われている。
おおた でも僕が個人的にいちばん罪だと思っているのは、こういうロジックが流布することで、子どもたちから学びの喜びを奪ってしまう可能性が高いってことです。
子どもって「いいこと思いついた!」って瞬間に、自ら体験を始めますよね。そのときがいちばん楽しいし、学べるわけじゃないですか。だけど、「この体験にはこういう目的があるんですよ。しっかり非認知能力を伸ばしてくださいね」って言われた瞬間に、やる気なんて失せますよね。
学校で目的を設定された勉強をやらされているからこそ、学校の外で何かを体験することが輝いて見えていたわけです。だけど、そこにも目的を設定されちゃったら、「子どもはどこで喜びを感じればいいの?」って。
勅使川原 日常の営為すべてに「効用」や「合理性」「意味」のお墨付きを用意して、タイパよき活動をお膳立てしないとろくな大人になれない……なんて言説がまことしやかに喧伝されていますが、おとといきやがれですよね。教育経済学者がROI(投資収益率)で子育てを語って、かつそれを「科学的」子育てなどと呼んだりしますが、「いつまでパイの奪い合いをさせる気なんだ?」ともやもやします。
初期値の違いは、遺伝学をはじめとする個体差としても、経済的にも、たしかにあります。でもその違いは、いつもいつも個人単位で埋めなければいけない由々しき「格の違い」という問題ではない。違いがあっても、競争ではなく共創によって埋め合えればいい。ごく限られたひとしか「豊かに」「しあわせに」暮らせないとの前提に立つような「生き抜く」社会ではなく、「生き合い」をしたって何も罰は当たらないよね? ……という話を我々はしています。奪うだけが能じゃないですよね。パイを増やすことに叡智を持ち寄りたいです。
