1944年5月に海軍少尉として任官し、幹部として主力艦などを護衛する駆逐艦「呉竹」への乗組を命じられる。

1944年、日本の戦況は絶望的だった。10月のレイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅し、フィリピンへの補給路は断たれた。それでも南方の石油などを運ぶため、日本は船団を次々に編成していた。千尋が乗船する呉竹はそうした輸送船を護衛する任務に就いた。

東シナ海から南シナ海まで、アメリカの艦隊が作戦行動中であったため、こうした船団の航海は決死の覚悟で臨まなければならなかった。

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特に、台湾最南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬とフィリピン領バタン(バシー)諸島の間に位置する約150キロのバシー海峡が危険極まりなかった。黒潮が流れるこの海域は、米潜水艦部隊からは「コンボイ・カレッジ(護送船団大学)」と呼ばれていた。それは輸送船の墓場であることを意味している。

太平洋戦争中、この海域で少なくとも10万人以上もの日本人将兵が犠牲となっている。これは東京大空襲や原爆投下に匹敵する規模の犠牲者数であるにもかかわらず、戦後長く「忘れられた悲劇」となっていた。

バシー海峡の悲劇を象徴する場所が、台湾最南端の高台に建つ潮音寺だ。この寺は1981年、「ヒ71船団」の玉津丸撃沈で12日間もの壮絶な漂流を生き延びた元日本兵・中嶋秀次氏(2013年、92歳で死去)が私財を投じて建立した。

生還した男の壮絶な体験

千尋の運命を語る前に、同じ時期に同じ海にいた中嶋氏の壮絶な体験を述べたい。

1944年8月19日午前4時50分、タンカーの護衛目的でフィリピン・マニラへ向かう途中、玉津丸は米軍の潜水艦「スペードフィッシュ」による魚雷攻撃を受けた。甲板に出た途端、時化の大波にさらわれ海中に引きずり込まれた中嶋氏は、偶然手に当たった盥(たらい)船のようなものを掴んで生き延びた。

筏に這い上がった将兵たちは、三角波が襲うたびに一人、また一人と波間に消えていった。最盛期で50人を超えていた生存者も、救助船が現れたものの置き去りにされ、絶望的な漂流が続いた。中嶋氏は後にこう詠んでいる。