「待ってよと 血を吐くこえで 呼ばいつつ 水掻く兵ら 涙ぬぐえず」
「もう見えぬ 船よばいつつ 筏こぐ 狂いしごとく 竹筏こぐ」
容赦なく照りつける8月の太陽、耐えきれず海水を飲み始める兵士たち、茶色い尿、そして次々と狂い死ぬ戦友たち。ある兵士は幻想の中で「湯をくれたご婦人方」を追いかけて夜の海に飛び込み、別の兵士は中嶋氏を妻と思い込みながら水を求めて息絶えた。
中嶋氏は、最後に残った朝鮮人軍属と死んだ兵の人を食べるかについて議論までしたという。その朝鮮人軍属も「中嶋さん、ありがとう」とつぶやきながら死んでいった。中嶋氏は極限状態で、なぜか涙を流しながら軍人勅諭を叫び続け、12日目にようやく救助された。
玉津丸は、輸送能力をはるかに超える4820名が乗船していたとされ、戦死者は全乗船者約99%の4755人だった。日本の戦没輸送船のなかでも特に犠牲者数が多い。その中で中嶋氏は「奇跡の生存者」といえる。
弟との衝撃的な再会
バシー海峡で生き延びたものもいれば、そうでなかったものもいる。
中嶋氏が極限状態から救助された約4カ月後、千尋は呉竹に乗り組み、バシー海峡へと向かっていた。艦底に近い位置にある水測室で、千尋は敵潜水艦探知の任務に就いていた。
しかし、1944年12月30日、米潜水艦レザーバックの魚雷を受ける。魚雷は2発発射され、1本目は外れたが、2本目が艦橋前部に命中する。魚雷の被弾で、呉竹の艦橋より前の部分は全て消え去り、千尋がいた水測室のあたりは、跡形もなくなっていたという。呉竹は艦長・吉田宗雄大尉以下140名とともに海に沈んだ。
やなせたかしは後年、「弟は千尋という名前のとおり、千尋(せんじん)の海の底に沈んでしまった」と綴っている。もちろん骨などは残っていない。復員後のやなせたかしが伯母から言われたのは「チイちゃんは死んだぞね」。弟の骨壺の中に見たのは「海軍中尉柳瀬千尋」と書かれた木札のみだったという。