その後、彼女は…

 4ヶ月後の1983年3月2日に裁判所が下した判決は過失致死と銃器の不法所持で懲役6年。弁護人の「彼女はこれまでのトラウマや娘の死を受けて精神が不安定な状態にあり責任能力を問うことは難しい」との主張が全面的に認められた結果だった。さらに3年後の1986年、刑期を3年務めたところで仮釈放。前年の1985年には教師の男性からのプロポーズを獄中で受け入れ人生初の結婚も果たした。

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 1988年、夫がナイジェリア・ラゴスのドイツ人学校に転勤したことに伴い現地に移住したものの、結婚生活は長く続かず1990年に離婚。その後はイタリアのシチリアに移り、パレルモのホスピスで安楽死の助手として働いていたところ膵臓がんが見つかり、ベルリンの壁崩壊後のドイツに帰国した。1996年8月、死期を悟ったマリアンネは北ドイツ放送(NDP)の知り合いのリポーターに依頼し、自分の密着番組に出演。

 改めて、グラボウスキー殺害に一片の悔いがないことを語った。膵臓がんにより病院で息を引き取ったのは、それから1ヶ月後の同年9月17日(享年46)。遺体はリューベックのブルグトール墓地にある娘アンナと同じ墓に埋葬された。

最初から記事を読む 「パンッ!パンッ!パンッ!」7歳の娘をレイプ殺害した性犯罪者を“法廷で射殺”…前代未聞の事件を起こした『母親のその後』(海外・昭和56年)

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