子育てが難しい時代である。母親たちは常に厳しい視線に晒されている。子供を置いて出かけたといっては叩かれ、子供を連れて出ればベビーカーが邪魔だと舌打ちされ、母乳で育てないと子供がちゃんと育たないと脅され、果ては、子供に障害があるのは母親の妊娠中の生活習慣や育て方に問題があると決めつける向きまであるらしい。母親たちにとって、子育ての巧拙は自分の人格まで他人に評価されることを意味する。この世のどこかに「正しい子育て」というものがあり、それから少しでも外れたら厳しく減点されてしまう……。そんな怯えが見え隠れする。いったいいつから「子育て」に注がれるまなざしは、こんなにもギスギスしたものになってしまったのだろうか。いま、母親たちは何に怯えているのだろうか。
物語の主人公・里沙子は三歳になる娘の子育て真っ最中だ。自我の芽生える年頃、なんでもイヤイヤと頑固に拒否する娘に手を焼いている。そこへ裁判所から思いもよらない知らせが届く。裁判員候補者に選ばれたのだ。平凡な家庭の主婦である里沙子はとまどいながらも、補充裁判員として裁判に参加することになる。
裁判の被告人は、生後八ヶ月の娘を風呂の湯船に落として死なせてしまい殺人罪に問われている、里沙子と同じ「母親」である。出産して早々に、うまく育てられない、体重が増えないなどと子育てに自信を失い、やがては子供の尻や足をつねったり叩いたりするようになり、優しい夫や世話好きの姑の助けも拒否したあげくの犯行であるという。はたして殺意はあったのか、なかったのか、連日の審理が始まる。被告人をめぐる様々な人の証言を聞くうちに、里沙子は胸の奥にしまわれていた自分自身の心の傷の記憶が、えぐり出されるのを感じるようになる。
あらゆる努力をしても母乳の出が悪かったとき、夫や姑から言われた心ない言葉。しつけをしていただけなのに虐待を疑われた屈辱。自分は駄目な母親なのではないかという根深い劣等感。
被告人と自分を重ね合わせるうちに、里沙子の心は激しく削られていく。
里沙子と被告人の日常生活に起こる数々の出来事が、しみじみと胸に刺さる。
「ああ、私もそうだった!」と記憶が掘り起こされる感覚を、多くの読者がかんじるだろう。
被告人に自らを重ねる里沙子。里沙子に自分を重ねる私自身。いつの間にか自分も法廷に身を置いて「当事者」になっているような気持ちにさせられる。読む者に「自分の心の闇」を覗かせる著者の筆の力に、深く引き込まれた一冊だ。