運河を挟んで“正反対”な「天王洲アイル」

 天王洲アイルは、東に京浜運河、南に目黒川、北と西には天王洲運河が流れる埋立の島。

 京浜運河の向こうには品川埠頭、北の天王洲運河の向こうには東京海洋大学、南の目黒川を渡ると東品川の住宅地。そして新東海橋で天王洲運河を西に渡って少し進んだ先には、旧東海道品川宿の町並が広がっている。

 
 

 旧東海道に向かって歩いてゆくと、途中で明らかに町の雰囲気が変わるのがわかる。人工の埋立地ではまっすぐに道路が通り、交差点もおおむね90度。

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 ところが、東海道が近づくと道幅が急に狭くなり、人がすれ違うのがやっとのような路地もちらほら。大型マンションや高層ビルは見かけない。ところどころに神社仏閣があって、老舗らしき古い商店もちらほらと。湾曲した道路は、まだ沖合が埋め立てられる前の海岸線に沿ったものなのだろう。

 

 京浜運河を挟んで、天王洲アイルと旧東海道品川宿。まるで正反対の性質の町が、隣り合っている。

 これが、東京臨海部、ウォーターフロントならではの景色ということなのか。そして、そうした文脈の中で見れば、天王洲アイルはりんかい線で結ばれているお台場などとも似通った、ありふれた埋立の町のひとつなのである……。

 この理解は、半分正しくて半分間違っている。

 

「天王洲アイル」の“カタカナじゃない方”と“ひとりのアメリカ人”

 正しいというのは、天王洲アイルが埋立地であるということだ。ただ、ここは単なる埋立地とは少し違っている。それに、「天王洲」という名の由緒はだいぶ古いものなのだ。

 

 なんでも江戸の昔、まだ天王洲アイルが海の上、品川沖の浅瀬だった頃。砂の中から牛頭天王の面が出現したのだとか。その神面は荏原神社の天王祭でも使われる神の面。そんな謂われから、品川沖の浅瀬が「天王洲」と呼ばれるようになったのだという。

 

 そして時代が下って幕末、黒船がやってくる。すると慌てた幕府は品川沖に黒船を迎え撃つための砲台を整備する。そのひとつ、第四台場がいまの天王洲アイルのはじまりだ。

 第四台場は結局完成を待たずに捨て置かれ、「崩れ台場」などと呼ばれていたという。その場所は天王洲アイル北東の端、シーフォートスクエアのあたり。当時の石垣の一部がいまも残っているらしい。