アイドル活動があったからこそ、書くことへの執念が生まれた
スケザネ そこが宮田さんのユニークなところですね。僕は本というものに本格的に触れたのが20歳を過ぎてからなので、自分の経験的な感情を、「あぁ、あの感覚はこういうことか」と本で答え合わせをするような感覚でした。
宮田 私がずっと言葉にこだわって書いてきたのも、感情をうまく言葉にできない人って沢山いて、「言葉にするって難しいよね」と仲間を見つけて話したかったから。そのための言語化とも言えます。
国語の問題を解くのが得意だったのは、アイドル活動で思わぬかたちで活きました。「こう言ってこんな反応をすれば、人は私をこう思うだろう」という言語的な演出法は、短い時間のなかで私の感情を伝える術になってくれました。
応援してくれるファンの人を裏切りたくなくて、本心をそのまま出したくないときも、嘘はつきたくなかった。少し助詞や助動詞を変えるだけで、全体のニュアンスを操作して、嘘ではない、ほぼ真実の文章を作ることができます。ファンを傷つけず、自分を守るために言語化は避けて通れないものでした。
でもそれは国語問題で学んだ読解法に過ぎないから、どこか自分でも嫌だったんですね。そうではない領域で言葉を届けたいから、いま小説を書いています。アイドル活動があったからこそ、書くことへの執念が生まれたと思います。
ロジカルに言語化することの罠
スケザネ いま読解法の領域での言語化、という指摘が出ましたが、僕は感情を言語化すると、その感情が固定されてしまう記号の罠があると思っています。リアルに感情がうごめいているときって、ひと言で言い表せるものではなく、嬉しさも悲しさもムカつきもあって、いわばいろんな色の絵具がドロドロに混ざり合った状態だと思う。
でもそれを言葉にするとき、「嬉しい」という一色のデジタルな情報になって、単純化された記号で意思決定してしまいがち。言語化でロジカルに考えるって、実は一番「頭を使わずにサボれる」方法でもあって、システマティックに物事を処理できる便利なアプローチです。それが良くも悪くも、言葉の持つ力です。
ただ、そこにばかり頼るのは言葉を扱ううえで「低級」な方法だと僕は思っています。もっといえば仕事で、本当のところはよくわからない部分があるのに、言葉と言葉の組み合わせでまるで数式を動かすように評論を書きそうになることがあります。
宮田さんはこのあたりどうですか?
宮田 私の場合、感情を言語化するとき、いろいろな未知のサンプルを探したいから書いていますね。「あ、そこでこういう動きになると、こんな感情が動くんだ」と、常に登場人物たちと対話をしながら書いていて、最初私には意味がわからなかったけど、「あの子はこういう感情でこうしたんだ」と後からわかることも。
そういう探求は、突き詰めると、私自身のことをもっと知りたいからなのかもしれません。小説はまず自分が読みたいものを自分のために書き、そこに共感してくれる友達を見つけられたらいいなというスタンスなので。

