銭湯以外のフロアを見て回ると…

 その後、女湯側にも入ってみたが、カランの樹脂製カバーの色が違うだけで、男湯と同じ造りで大きさも全く同じだった。

 オーナーからは銭湯以外にも、ビル全ての鍵を預かっていたため、可能な限り各フロアを見て回った。

1階のスナック街を探索。当時のまま時が止まっているかのようだ

 1階は飲み屋街になっており、7軒のスナックや居酒屋が入っていた。奇麗に片づけている店もあれば、営業していた当時のまま時間が止まってしまっているような店もあった。

ADVERTISEMENT

奇麗にして物が残っていないお店もあれば
ほぼすべてが残ったままのお店もある

 2階は銭湯のほか中国エステがあり、3階はワンフロアを使ったキャバクラが入居していた。

3階のキャバクラ跡

 ビルの正面に看板が掲げられていた、あのキャバクラだ。“リーマンから後期高齢者まで”というキャッチコピーが印象に残る。

リーマンから後期高齢者まで

 4階は半分が店舗で半分は住居になっており、オーナーがご家族と暮らしていたようだ。

 結局、ビル一棟の探索に丸一日以上かかってしまった。

 後日、お借りしていた鍵を返しがてら、オーナーである稲垣義博さん(71歳)に話をうかがった。

話をうかがったオーナーの稲垣義博さん

 柳ヶ瀬浴場の歴史は深く、この場所で銭湯を始めたのは、なんと明治16年。当時はもちろんビルではなく、木造平屋の銭湯だった。柳ヶ瀬商店街や岐阜市政の礎となった金津遊郭が開設されるよりも、もっと前のことだ。屋号は“金津温泉”だったが、明治22年に金津遊郭が開設されると、銭湯のすぐ近くに遊郭の入り口である大門(おおもん)が設置されたことから、“大門の湯”と呼ばれるようになった。

稲垣さんに見せてもらったビル開業時の新聞広告

 戦時中には飛行機が落ちてきて、入浴中の女性が亡くなることもあったという。戦争で岐阜市一帯が焼け野原となり、銭湯も焼けてしまったが、再建して銭湯を続けた。

 日本が高度成長期に入ると、岐阜の繊維産業が盛んとなり、柳ヶ瀬商店街も大いに栄えた。銭湯の周辺は歓楽街の中心地で、平屋建ての銭湯は時代に取り残されてゆく。

 昭和50年、先代の稲垣正信さんが4階建ての柳五ビルへと建て替えた。儲からない銭湯をやめて、全フロアを貸しビルにする案もあった。

稲垣さんに見せてもらったビル開業時の新聞広告

 そのほうが建築費は安く済むし、賃料収入も増える。だが、「銭湯のおかげでビルが建てられた。赤字でも銭湯を続ける」という覚悟で、柳ヶ瀬浴場は存続した。「銭湯を続けたのは、おやじの誠意だと思う」と稲垣さん。