銭湯ありきで設計された繁華街のビル
銭湯ありきでビルが設計された。繁華街の1階はドル箱であるためテナントにし、銭湯は2階に上げた。多くの湯やボイラーを2階に設置するため、強度や防水には特に力を入れたという。湯気を逃がすために吹き抜けが設けられ、そのため2階なのに日が差していたのだ。閉業するまで、水漏れすることは一度もなかったという。
ビルを造っている間から、入居希望者からの問い合わせが殺到。オープンと同時に15全てのテナントが埋まった。多い時でひと月に300万円もの賃料が入ってきたが、銭湯は儲からなかったという。
木製の脱衣箱はケヤキで出来ており、建て替える前に使っていたものをそのまま利用した。戦争で焼けて建て替えられた時のものなので、戦後間もない頃に作られたものだ。どうりで年季が入っていると感じたはずだ。
稲垣さんが「もっと古い脱衣箱がボイラーの横にあるよ」と教えてくれた。物入れとして使われていたもので、私も探索していて気になっていた。さらに古いということは、少なくとも戦前であることは間違いない。戦争で焼け残った脱衣箱を、物入れとして使っていたのだろう。明治16年の開湯当時のものである可能性もあるが、稲垣さんもそこまではご存知ではなかった。
建て替える前の銭湯の写真などがないか稲垣さんに尋ねたが、残っていないという。私が柳五ビル内を探索していた時、住居部分の残留物の中から、銭湯の番台らしき場所に座る女性のモノクロ写真を見つけていた。
銭湯に関連しそうな写真はこれ一枚しか見つけられなかったため、稲垣さんにお見せすると「これは母親だと思います。平屋の頃の写真ですね」と少し驚いていた。
銭湯を建て替える頃、4代目となる稲垣さんは家業を継ぐため大学をやめて銭湯に専念する。近所の住民のほか、キャバレーのホステスさんや従業員さんも銭湯によく入りに来てくれていたという。



