「毎日、泣きながら学校に通っていました」中3でアメリカ移住→人種差別を経験
――中学3年生の時、“やんちゃ”な上福さんをみかねたお父さんとアメリカに移住したとか。
上福 父が転勤するタイミングで、「他の国よりも暮らしやすいだろうから」とアメリカのオハイオ州に連れて行かれました。私は「児童虐待だ」と騒いだんですけど、母はもう面倒を見切れないとギブアップしたんです。
――アメリカでカルチャーショックはありましたか?
上福 子どもながらに、「自分が生きてきた世界はぬるかったんだ」と感じました。想像を超えて貧富の差が激しいんです。
お金持ちの家のガレージにフィリピン人の家族が住んでいるのを目の当たりにして、ここで生き抜くためには一生懸命に勉強をすることが最短ルートなんだ、と理解しました。
――人種差別もありましたか?
上福 自分が住んでいたところが99.2%白人だったんです。そのほかは黒人、ヒスパニック系、アジア系で、日本人は私だけでした。先生は私の父の仕事を知って手のひらを返したけど、子どもは関係ないので酷い扱いを受けました。
「英語が話せない=自分の意見を主張できない」ということだから、何も言わない人は「いないもの」とされていたんです。毎日、泣きながら学校に通っていました。
「日本人であることのコンプレックスがすごかった」
――英語を覚えるしかないと。
上福 父が家庭教師をつけてくれたんですけど、そもそも何を言っているのかわからない(笑)。赤ちゃんが言葉を覚えるように、とにかく相手の言葉を聞いて、見よう見まねでしゃべってみることを繰り返して、少しずつ英語を話せるようになりました。
――環境的に、自身の体の大きさは気にならなくなったんじゃないでしょうか?
上福 「アメリカには大きい人がたくさんいるから」と言われたんですけど、同学年で私より大きい女子はオーストラリア出身のひとりだけ。アメリカでも私は大きかったんです。
ただ、肌の色も髪の色も目の色もそれぞれなので、日本にいる時より体の大きさを気にすることはありませんでした。日本人であることのコンプレックスのほうがすごかったんです。
――英語がしゃべれるようになって、そのコンプレックスは解消されましたか?
上福 いや、そんなことはなかったです。最終的にはクラスの仲間として受け入れてもらえたけど、学校の外では周りから蔑むような目で見られていたと感じていたので。
撮影=細田忠/文藝春秋

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