25歳を過ぎて未婚の女性は「行き遅れ」と見られていた時代であった。浅野が晴れの舞台で自分をそう呼んだのは自虐ともとれるが、当時、取材を受けるたび結婚について訊かれ、いささかうんざり気味だった彼女からすればマスコミに対するささやかな皮肉であったのかもしれない。もっとも、当時の彼女は仕事に追われ、結婚を本気で考える余裕はなかったようだ。
それでも自分の人気に対しては冷静であった。ブレイク直後のインタビューでも、《今は、ただ、時代の流れにのってるだけだと思います。流れっていうのはいずれ変わるし。人はみんな次から次へと新しいものを求めるものですし。だから、今、のってる流れにしがみつく気はありません》と客観的に分析している(『毎日グラフ』1988年10月9日号)。
「他人の家で育った」という生い立ち
ブームの最中も浮かれなかったのは生い立ちのせいでもあるらしい。本人によれば、《子どものときから他人の家で育ったせいか、まわりの人の顔色や言葉をうかがう癖がついていて、自分のことは客観的に、冷静に見るところがあるんです》という(『婦人公論』2004年5月7日号)。
「他人の家で育った」というのは、父親と早くに離別し、母親もその後生計を立てるため水商売に入ったため、一人娘の浅野は伯母の家に預けられたことを指す。母親は地元・神戸でナンバーワンホステスと呼ばれるまでになり、やがて自分の店を開いた。そして経営が軌道に乗ったところで、小学5年生になっていた浅野を引き取り、ようやく親子で一緒に暮らし始めたのだった。
「宝塚歌劇団に入るのよ」と言い聞かせられていた
もともと芸能界入りは浅野が幼いころからの母親との夢だったらしい。母には、あなたは宝塚歌劇団に入るのよと言い聞かせられ、足がまっすぐ伸びるよう正座を禁じられたほどだった。小学生のときには、テレビ番組のアシスタント募集や、菓子メーカーのキャンペーンガールのコンテストに応募し、最終的には選ばれなかったものの、あとで担当者から「本当はお宅のお嬢さんを残したかった」と伝えられ、別の形でテレビ出演の機会を得ていた。
浅野によれば、これに調子づいた母が自分の店で娘について触れ回っていたのを地元のラジオ局の人が聞きつけ、その人の関係していた歌謡教室に通わせてみないかと勧められたという(前掲、『転がる女にコケはつかない』)。
この歌謡教室を主宰していたのが、のちに浅野が所属する研音の前身会社だった。彼女はここで半年間、歌のレッスンを受けると、歌手デビューが決まる。デビューのため上京せねばならなかったが、母はまだ中学1年だった娘が神戸を離れることに反対した。しかし、研音を設立してまもなかった野崎俊夫社長(2024年死去)は母を説得するため、毎週東京から通い詰め、半年かけて納得してもらったという。

