こうして浅野は単身上京し、中学2年になった1974年、「とびだせ初恋」で歌手デビューした。2曲目の「恋はダン・ダン」でこの年の日本レコード大賞新人賞を受賞している。一方でそのころ、ドラマ『太陽にほえろ!』で、中学生ながら大人の女性を演じる。その後もドラマや映画に出演を重ねるうち、俳優への道を意識するようになっていった。
『太陽にほえろ!』での役がそうだったように、当時から見た目が大人びていたためか、テレビなどで彼女が男性アイドルと並ぶのを見て嫉妬したファンから、剃刀入りの手紙が届くこともよくあったようだ。
「セミヌードにはなっても…」絶対にしないと決めていたこと
堀越高校の1年生だった1976年には、筒美京平(ジャック・ダイアモンド名義)の作曲によりディスコ歌謡「セクシー・バスストップ」をリリースし、歌手として自身最大のヒットとなった。しかし、ジャケットにはなぜか写真ではなくイラストが使われていた。当時の彼女といえば10代とは思えないセクシーなビジュアルが売りだったはずなのになぜ? と高校の同級生だったクレイジーケンバンドの横山剣から最近訊かれた浅野は、《女性の反感を買うことを恐れたんでしょうか。「髪を切れ」と命じられたのも、この頃でした》と答えている(『週刊ポスト』2025年1月31日号)。
どうやらこの時代、セクシーさを強調するほど同性には嫌われたらしい。ただ、彼女は自分は大器晩成型で、あとできっといい仕事ができるはずだと信じており、そのためにもセミヌードにはなっても、バストトップは絶対に見せてはいけないと思い、固く守り続けていたという(前掲、『転がる女にコケはつかない』)。
20代に入り、たまにドラマに出演しても、やはり実年齢より上に見られていたためか愛人役ばかり。そのころ会ったドラマの名演出家として知られる久世光彦には「あなたは見た目と年齢のギャップが埋まったとき、いい仕事ができますね」と言われたという。
それが30歳を越したある朝、鏡を見ると「あら、若いじゃない」と、年齢が見た目を越したとの実感を得たらしい(『婦人公論』2004年5月7日号)。セクシーさで売っていたころは化粧も濃く、どこか男に媚びている印象がぬぐえなかったのが、このころにはナチュラルメイクになり、一転して同性の支持を集めるようになっていた。
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