このとき土石雪崩が発生し、北麓の鎌原村(現嬬恋村)では、全村152戸が一瞬にして飲み込まれ、483人が犠牲になっている。赤く熱した石が降ってきて家が焼けたり、軽石に家が押しつぶされたりする被害も、後を絶たなかった。また、土石雪崩は吾妻川や利根川を下って、遠く江戸湾や太平洋にまで到達している。

それほどの噴火だから、噴煙も地上約10キロ以上の成層圏まで届き、広い地域に火山灰が降り注ぐことになった。噴煙が偏西風に流されたため、灰はとくに風下で激しく降ったという。

東北で数十万人が餓死したワケ

気温の上昇が激しい昨今と逆で、江戸時代は世界的に小氷河期といわれ、気温が低めだった。そこに浅間山が噴火して、噴煙が成層圏を覆い、さらに同年、アイスランドのラキ火山も大噴火した。その影響で、北半球の気温は年間平均1.3度下がったという。

ADVERTISEMENT

しかも、浅間山が噴火する前年の天明2年(1782)から、悪天候や冷害が原因で飢饉が発生しており、とくに東北や関東で被害が甚大だった。そこに噴火で追い打ちがかかったのである。

火山灰は浅間山から近いとはいえない秩父(埼玉県秩父市周辺)で15センチ、佐倉(千葉県佐倉市周辺)で10センチほど積もったという。だから、周辺の農業が全滅したのはいうまでもないが、そのうえ火山灰が降り積もったまま流れ下った吾妻川や利根川が各地で氾濫し、田畑が荒廃した。加えて、冷害等による被害も甚大だった。

こうして大凶作がもたらされたが、なにしろ前年も不作だったから、そもそも余剰米がない。それでも、江戸や大坂は各藩から米が移送されていたからまだマシだったが、米を送ってしまった末に収穫がほぼゼロになった弘前藩(青森県)など東北の各地は、悲惨な状況になった。東北地方の太平洋側では、天明3年(1783)から4年(1784)にかけ、数十万人が餓死している。

暗躍する中間の卸売業者

こんな状況だから、都市部でも米はどんどん高騰した。ただ、原因は米の収穫量が減ったことだけではなかった。米を買い占め、高値になったところで売り払おうと目論む中間の卸売業者の暗躍で、米価はなおさら高騰することになった。このあたりは令和の米騒動と変わらない。