直木賞作家・朝井リョウさんによるエッセイシリーズ“ゆとり三部作”。

時をかけるゆとり』『風と共にゆとりぬ』『そして誰もゆとらなくなった』から構成される本シリーズは「頭を空っぽにして読めるエッセイ」として話題を呼び、累計30万部を突破しています。

朝井リョウさんのエッセイシリーズ“ゆとり三部作”。©文藝春秋

『そして誰もゆとらなくなった』文庫版の発売を記念して、朝井さんが「読み始めに最適な一本」を各巻からそれぞれセレクトして公開します。

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 第3弾『そして誰もゆとらなくなった』からは、「空回り戦記~サイン会編~」が選ばれました。以下、朝井さんのコメントです。

「私の人生の幹でもある“空回り”は自己愛ゆえのものだと非常によく伝わる文章だと思います。」

 こちらの記事は後編です。

◆◆◆

めちゃくちゃ怪しいサイン会

 当日、私の右隣にはタイピングの速さを見込まれた男性社員が鎮座していた。確かにタイピングの速そうな、頼もしい横顔である。そしてその男性の手元には、私が持ち込んだノートパソコンがセッティングされている。

「最終確認になりますが」サイン会が始まる直前、私は男性社員に話しかける。「為書きをいただいたら一度お渡ししますので、名前を検索欄に打ち込んでください。データが出てきたら、私の肩を叩いてください。そのとき、名前以外のデータをできるだけ読まないよう心がけてください」

「わかりました」

 間もなく一人目の方がいらっしゃいます、というスタッフの声を聞きながら私は、これまでのサイン会に比べて自分の精神が非常に安定していると感じていた。“前回手紙まで書いてくれた人に対し初めまして感を出してしまう”という可能性がかなり低下したことで心が非常に落ち着いていた。

 読者の方々にも喜んでもらえるし、私のサイン会への後ろめたさも減る。手紙のデータベース化とは、なんと革命的な“熱烈な準備”なのだろうか――。

「よろしくお願いします」

 一人目の方の為書きと本が、スタッフから差し出される。「今日は来てくださってありがとうございます」私はそう言いながら、為書きの書かれたメモ用紙をノールックで右隣へと滑らせた。

 カタカタカタカタッ。

 さすが“できるだけタイピングの速い人”という条件をくぐりぬけてきた逸材である。流れるように名前を打ち込んだ男性社員は、「ありません」と小さな声で結果を報告してくれる。私は彼に対して素早く頭を下げると、何事もなかったように「一人目ってことは、かなり前から待機してくださっていたんじゃないですか?」等と言いながら、テーブルを挟んで立っている一人目の参加者に向かって顔を上げた。

 その方は、私ではなく、隣の男性を見ていた。今この人は一体何を調べたんだろう―そんな不安そうな表情で。

 私はそのとき初めて、この試みに対する外部の視線に触れた。

 これ、めちゃくちゃ怪しいんだ!

 自分の名前が書かれた紙を受け取ったスタッフがパソコンで即“何かしら”の有無を調べている――そんなの、私だったらモヤモヤする。一体何のデータを参照しているの……? と不安になる。しかもやけにタイピングが速いときた。より不気味だ。