「今日はお忙しいところ来ていただき、本当にありがとうございました」

 私はできるだけいつも通りの雰囲気を醸し出そうと努めたが、一人目の参加者の視線はやはり、高速でタイピングして以降打って変わって何の動きも示さない謎の男に引き寄せられ続けていた。だが、参加者ひとりひとりにこの男性社員とパソコンの存在意義を説明している時間はない。結果、あの日はかなり多くの読者にただただ“不安な気持ち”だけを持ち帰らせてしまった。あの日来てくださった方々、こういうことだったんです!

朝井リョウ『そして誰もゆとらなくなった』©文藝春秋

「え、やめてください!」

 だけどこの微妙な感じも、該当者が現れるまでの話だ。私は気持ちを立て直しつつ、隣席から定期的に飛んでくる「ありません」を受け止め続けた。該当者が現れれば、「ありません」、かつていただいた手紙の続きを話すという奇跡的な現象がこの場に舞い降りさえすれば、「ありません」、会場にいる全員がうっすら(何あれ……?)と思っている現状が様変わりするはず――。

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 と、何枚目かの為書きを受け取ったそのときだった。

「ありました」

 隣席から、そんな声が聞こえてきた。

 !!!

 私はこちらに向けられたパソコンの画面を見つめる。そこには確かに、私の手元にある名前と同じ文字列が表示されている。私は参加者のほうに視線を戻す。私と同世代ほどの女性の読者が立っている。

「ありがとうございます、以前お手紙をくださったことがありますよね?」

 前のめりにそう尋ねる私に、その女性は、「え、あ、はい、多分」と少々気圧され気味に答える。

 「ですよね、ありがとうございます! えーっと」私はパソコン画面を凝視する。その方の名前の右には、【転職に悩み中】という言葉が記されていた。なるほど、この方は転職しようかどうか悩んでいるということを、手紙に書いてくれていたのだな~!

 私は満を持して口を開いた。

「あれから、転職はどうなりましたか?」

 これこれこれこれ~! 私は声に出しながら感激していた。これまでの苦労がパア~と光を放ちながら体外へ発散されていくようだった。このキャッチボールをすることが夢だったんです!

「え?」

 女性は一瞬、呆気にとられると、

「私、そんなこと書いてました?」

 と言った。

「えーっと、書いてくださっていたみたいですよ、転職しようかどうか悩んでるって」

 私はデータをまとめるために最近まとめて読み返したため、わりと細かい内容も覚えていた。確かにこの方からの手紙には、人間関係に悩んでいて転職を考えている、というような記述があったはずだ。

「確かに転職しようか迷っていた時期はありましたけど……」女性は思案顔になる。「結局、しなかったんですよね」

「そうなんですか」と、私。

「はい。……ていうか、手紙……」戸惑う女性。

「前に、手紙、くださいましたよね?」と、私。

「はい……え? そのパソコン……?」語尾を震わせる女性。

 思ってた空気と違う!!!

 私はもう認めざるを得なかった。女性の表情が示すものが、感激でも喜びでもなく恐怖であるということを。

「そのパソコン……何なんですか?」

 気味の悪いものを恐る恐る眺めるとき特有の視線が、私のパソコン、及び最速で名前をタイピングした男性社員に注がれている。

「かつて手紙をくださった方に初対面みたいな対応をしてしまうのが嫌だったので、いただいた為書きで内容を検索できるように、手紙をデータベース化したんです」

「え、やめてください!」

 リターンエース! 明確な拒絶!

 私は椅子に座ったまま後ろに倒れそうになったが、かろうじて耐えた。

「手紙って結構そのときのテンションでわーって書いてるものなんで……改めて時間置いて話されるのは、だいぶ恥ずかしいです」

 確かに!!!!!

 目から鱗どころか魚群が回遊せんばかりの衝撃だった。私もこれまでの人生で誰かに手紙を書いたことが何度かあるが、数ヶ月後に改めて「あなた……こう書いていましたよねェ?」とパソコン越しに確認されるなんて絶対に嫌である。タイピングが速いなら尚更だ。