「ガンダム」シリーズの懐の深さ
本作は腐敗を正すという大義に生きるハサウェイと、普通に生活を送る民間人との対比も鮮烈だ。タクシーに乗り込んだハサウェイが運転手と交わす言葉を小説版から引用する。
「ハハハ……そうだねぇ。でも、マフティーは、千年先の地球のことをいっているようだけど、それでは、駄目なのかな?」
「ケヘヘヘッ……暇なんだね? その人さ? 暮しって、そんな先、考えている暇はないやね」
「暇……?」その日常的な言葉は、ハサウェイには、衝撃的といえるものだった。たしかに暮しがキュウキュウしていれば、明日のことを考えるのが精一杯というのが庶民であろう。
それを教義や主義を達成するために、と考えた時から、人は、狭視的になる事実は、認めないではない。
(富野由悠季; 美樹本晴彦. 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ(上)、角川スニーカー文庫、p.114-115)
理想や大義という大きなものに目覚めると、時に人は地に足のついた現実を忘れてしまうことがある。
明日の生活の心配のない者だけが1000年先の理想について考えられるというのは、その通りであり、だれもが生活に余裕のない時には、地球規模の話は心に響かないものだ。
そして、本作において争いを撒いているのはほかならぬハサウェイ自身でもある。「いくら高い理想を掲げていても、そんなにたくさん殺していては、いつかマフティー自身が生贄になる」というセリフを自ら言うことからもわかる通り、そんな矛盾を本人も良く自覚しているふしがある。
上記のタクシー運転手のシーンは、本筋の物語とはほとんど関係なく、カットしても成立する。しかし、本作の重要なポイントを示しているようにも思う。人々のためを想い、理想を掲げて立ち上がった人間が、人々の生活のことを想像できなくなっている。そんな自らの矛盾に気が付かされてしまうハサウェイの苦悩を深くするために、このシーンはある。
そんなハサウェイを本作の村瀬修功監督は「壊れた人間」と語っている(※)。日々の暮らしで精いっぱいの人から見れば、1000年先のことを考えている人物は壊れていると思うだろう。
だからと言って、1000年先の大義を考える必要はないと言えるだろうか。壊れていても誰かが1000年先の理想を謳わねば、人々は近視眼的に行動するばかりなのではないか(減税が選挙の争点になっても温暖化は争点にならないように)。
「ガンダム」シリーズとはこうした複雑な世界を、エンターテインメントの枠組みで描くことのできる懐の深さがある。『閃光のハサウェイ』はそんな同シリーズの奥深さをよく味わえる内容だ。
参照
※ https://www.gundam.info/news/hot-topics/01_4767.html
